No.107, No.106, No.105, No.104, No.103, No.102, No.101[7件]
時代のどこかで贅沢の逆転は起こるという話
No.
107
:
Posted at
2024年12月05日(木)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
Youtubeを見てたら、お勧めに「【落合陽一×京都】日本文化の可能性と世界発信の戦略を考える。」という動画が出てきたので、面白そうだから見てみた。NewsPicksの呼び込み動画なので、冒頭17分の一番良いところで切れるため、その後の展開は分からないけれども(無料トライアルで見られるらしいが)、最後の部分で非常に興味深い会話があったので、ちょっと文字起こししてみる。最初の2つはゲストの言葉。それを受けてのオーナー落合陽一氏が返すという構成。
「サスティナビリティをSDGsっていう海外の解釈を入れたうえで真似るんじゃなくて、日本の文化に根差しながら上手くネットワークを張っていくだけでも、かなり魅力的なものになる。」
「日本は最先端をやってたし、今もやっているっていうことですよね。」
「多分それがね僕は誤解だと思っている。それ単純に言うとね、日本は貧しかっただけなんですよ。人類は適宜 京都の清貧さにね、清貧っていうことは素晴らしいことだって納得してきたっていう失敗があるんです。その失敗をいつも繰り返すんですけど、その源流には古代的なものの中からエッセンスを見付けてきて最先端の発展を作ろうっていう失敗があるんですよ。つまり今やっているのは20年30年40年前も毎回同じ事やってきた話と同じことをまた言われたって感じなの。でね、あれは絶対どこか間違ってる。俺はそれが何故か何か知りたくて今日この場があると思ってて。そこまで達せないとやった意味がない。」
で、これを見て急に思い出したのだが、前に、ブログかツイッターで「喫茶店でノートを開いて万年筆で文字を書くのは贅沢な時間だ。しかし元々はペンで文字を書くのが当たり前で、パソコンやスマホで文字を打つことは贅沢だったはずが、いつかどこかで逆転し、文字を打つことが当たり前で、文字を書く事の方が贅沢になった。文字を書くことが贅沢になったのはいつからだろう」という類のことを言ったな、という事。文字数的にはツイッターかもしれない。
金継ぎブームが来る前に書いたと思うんだけど、金継ぎに物語性を持たせてブームとして広まった根本は、恐らく、この贅沢の転換によるものなのだろう。
本来、物を直して使うというのは、選択肢の無い状態の中で生活を継続するための唯一の手段であって、要するに貧しいからやらざるを得ないという側面がほぼ全てと言っても良い。新たに物を求める事、買うことは贅沢であり、物を直すのは貧しさの継続に相違ない。江戸の焼き継ぎなんていうのは、貧しさ故の工夫そのものだ。
ただし極一部の数寄者だけが、茶席における直しに対して贅沢という感覚を持っていた。だから漆を使う。
消費社会が少しずつ生活習慣として溶け込んでくると、庶民感覚の直しという行動は、買い直しへと転化する。直すという貧しい生活イメージからの逃避というよりは、時間の価値が高くなることで直す時間の消費を嫌ったということが大きいのかもしれない。しかし、更に消費が進んで身の回りから直す事が消え、直しに付随していた貧しさも忘れさられて直しそのものが希少性を持ち始めると、直しは贅沢の象徴として立ち上がってくるようになる。ここへ来て、直すことは貧しく、新しいものを買うことは贅沢、という価値観が完全に逆転する。
金継ぎブームが起こったのは、恐らく、そういうことがベースになっている。金継ぎは現代における贅沢のイコンという側面の方が大きい。
以前にこのブログでも、現代の金継ぎは直すという生活を選択した象徴として機能しているのだろうと書いたことがあるが、もっと分かりやすく言えば贅沢の標榜という事なのだろう。SNSに壊れた器や金継ぎした器を載せるのは、要するに自分の贅沢を確認するということだ。しかも漆ではなく接着剤、金ではなく真鍮粉の直しが多いのは、手っ取り早く贅沢のフラグを立てたいというファスト文化な確認の表れ(ある意味、この辺に貧しさの片鱗が残っていると言えなくもない)で一時的な贅沢の逆転によるものだという事を表していると思う。
人類が京都の清貧さを素晴らしいと思うのも、清貧さに贅沢というアイコンを重ね合わせるからなのかもしれない。つまり清貧なのではなく、清貧という贅沢に対するあこがれが、人類にはサイクルとして現れるということなのではないかと思う。それを失敗とするかは直ぐに決まるものではないのかもしれないが、個人的には失敗の割合は大きいと思うので落合氏の考え方と重なるところは大きく、贅沢の逆転が起るという事と逆転の起点を認識しないまま、ずっと同じ価値観が続いていると思い込んでいる事が失敗の繰り返しを誘発するのは間違いないような気がする。贅沢は循環する。その転換点が何故起こったのかを見極めることは結構大切だという事なのだろう。
Youtubeを見てたら、お勧めに「【落合陽一×京都】日本文化の可能性と世界発信の戦略を考える。」という動画が出てきたので、面白そうだから見てみた。NewsPicksの呼び込み動画なので、冒頭17分の一番良いところで切れるため、その後の展開は分からないけれども(無料トライアルで見られるらしいが)、最後の部分で非常に興味深い会話があったので、ちょっと文字起こししてみる。最初の2つはゲストの言葉。それを受けてのオーナー落合陽一氏が返すという構成。
「サスティナビリティをSDGsっていう海外の解釈を入れたうえで真似るんじゃなくて、日本の文化に根差しながら上手くネットワークを張っていくだけでも、かなり魅力的なものになる。」
「日本は最先端をやってたし、今もやっているっていうことですよね。」
「多分それがね僕は誤解だと思っている。それ単純に言うとね、日本は貧しかっただけなんですよ。人類は適宜 京都の清貧さにね、清貧っていうことは素晴らしいことだって納得してきたっていう失敗があるんです。その失敗をいつも繰り返すんですけど、その源流には古代的なものの中からエッセンスを見付けてきて最先端の発展を作ろうっていう失敗があるんですよ。つまり今やっているのは20年30年40年前も毎回同じ事やってきた話と同じことをまた言われたって感じなの。でね、あれは絶対どこか間違ってる。俺はそれが何故か何か知りたくて今日この場があると思ってて。そこまで達せないとやった意味がない。」
で、これを見て急に思い出したのだが、前に、ブログかツイッターで「喫茶店でノートを開いて万年筆で文字を書くのは贅沢な時間だ。しかし元々はペンで文字を書くのが当たり前で、パソコンやスマホで文字を打つことは贅沢だったはずが、いつかどこかで逆転し、文字を打つことが当たり前で、文字を書く事の方が贅沢になった。文字を書くことが贅沢になったのはいつからだろう」という類のことを言ったな、という事。文字数的にはツイッターかもしれない。
金継ぎブームが来る前に書いたと思うんだけど、金継ぎに物語性を持たせてブームとして広まった根本は、恐らく、この贅沢の転換によるものなのだろう。
本来、物を直して使うというのは、選択肢の無い状態の中で生活を継続するための唯一の手段であって、要するに貧しいからやらざるを得ないという側面がほぼ全てと言っても良い。新たに物を求める事、買うことは贅沢であり、物を直すのは貧しさの継続に相違ない。江戸の焼き継ぎなんていうのは、貧しさ故の工夫そのものだ。
ただし極一部の数寄者だけが、茶席における直しに対して贅沢という感覚を持っていた。だから漆を使う。
消費社会が少しずつ生活習慣として溶け込んでくると、庶民感覚の直しという行動は、買い直しへと転化する。直すという貧しい生活イメージからの逃避というよりは、時間の価値が高くなることで直す時間の消費を嫌ったということが大きいのかもしれない。しかし、更に消費が進んで身の回りから直す事が消え、直しに付随していた貧しさも忘れさられて直しそのものが希少性を持ち始めると、直しは贅沢の象徴として立ち上がってくるようになる。ここへ来て、直すことは貧しく、新しいものを買うことは贅沢、という価値観が完全に逆転する。
金継ぎブームが起こったのは、恐らく、そういうことがベースになっている。金継ぎは現代における贅沢のイコンという側面の方が大きい。
以前にこのブログでも、現代の金継ぎは直すという生活を選択した象徴として機能しているのだろうと書いたことがあるが、もっと分かりやすく言えば贅沢の標榜という事なのだろう。SNSに壊れた器や金継ぎした器を載せるのは、要するに自分の贅沢を確認するということだ。しかも漆ではなく接着剤、金ではなく真鍮粉の直しが多いのは、手っ取り早く贅沢のフラグを立てたいというファスト文化な確認の表れ(ある意味、この辺に貧しさの片鱗が残っていると言えなくもない)で一時的な贅沢の逆転によるものだという事を表していると思う。
人類が京都の清貧さを素晴らしいと思うのも、清貧さに贅沢というアイコンを重ね合わせるからなのかもしれない。つまり清貧なのではなく、清貧という贅沢に対するあこがれが、人類にはサイクルとして現れるということなのではないかと思う。それを失敗とするかは直ぐに決まるものではないのかもしれないが、個人的には失敗の割合は大きいと思うので落合氏の考え方と重なるところは大きく、贅沢の逆転が起るという事と逆転の起点を認識しないまま、ずっと同じ価値観が続いていると思い込んでいる事が失敗の繰り返しを誘発するのは間違いないような気がする。贅沢は循環する。その転換点が何故起こったのかを見極めることは結構大切だという事なのだろう。
漆が乾くのに湿度が必要な理由って、実は分かってる人少ないんじゃないか説。という話
No.
106
:
Posted at
2024年11月19日(火)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
金継ぎについて質問を受けたのがきっかけで、そこからウルシオールが酸化して固まるというのを改めて勉強して知識を整理しておかないとアカンかな。と痛感し、ネットで漆関連のサイトを見たり、ネットで見られる範囲の論文を読んだりしていて、漆が固まるのに湿度が必要つまり水蒸気が必要だという見解は共通して登場するものの、では実際に水蒸気がどういった使われ方をしているのかという具体的な話になると殆ど説明されていない感じがしなくね?という事実に気付く。
「酵素がウルシオールの酸化に水蒸気を利用している」とか、「水から酸素を取り出して使っている」という説明は見るのだが、では、H2つとО1つはどのように分解されて、それぞれがどういう経緯で使われたり放出されたりする等の、そういう話が見当たらない。結構、いろいろ見たのだが、カテコールが酵素の脱水素作用で繋がるとか、側鎖とカテコールが繋がるという話は多いのに、そこに水が介在するという話が出てこない。
漆は相対湿度が60%を下回ると恐ろしく乾かないというのは事実で、だから冬は漆風呂の管理とか大変なわけだから水蒸気が何かの役に立っていることは間違いない。だが、漆の方向から調べても結論が出ないということで、仕方がないから湿度と酸素の関係から更に検索範囲を広げてサイトをあたっていたところ、湿度が上がると酸素透過が高くなるという話を見付けた。アドレスから元をたどってみた所、三菱ケミカル株式会社が作成しているエチレン-ビニルアルコール共重合樹脂「ソアノール」という樹脂膜に関するサイトで、その中の、物を包む事についての基礎知識の8番の酸素透過係数の湿度依存性というPDFだった。
三菱ケミカル株式会社 ガスバリア講座のサイト
www.soarnol.com/jpn/solution/
8番だけ読んでも用語がよく分からないので1番から読み直してみたところ、要するに、ヒドロキシ基(OHのでっぱり)を持つ高分子は、相対湿度が60%を超えると高分子の隙間(穴っぽこ)に侵入した水分子が増えて隙間を広げる。そのため高分子膜は相対湿度が上がると酸素の透過度が高くなる。という事なのだそうだ。
そうえいば、水というのは世界最強の濡れ、つまり隙間侵入能力を持っているから、とにかく接着の邪魔になるというのは接着剤の本で読んだことがある。そして、ウルシオールのカテコールはヒドロキシ基を2つ持っていて、そのうちの1つが酵素によって脱水素されて酸化するが、もう1個ヒドロキシ基が残っていれば、漆が乾き始めた時の表面って、ヒドロキシ基を持った高分子の極薄膜って事になるんじゃないのか?それが湿度60%を超えると、水蒸気によって隙間が広がり酸素が透過して、極薄膜の下の酵素が奪った水素と結合し水として放出することが可能になり、酵素が活性化する、と。そんな風に推測する事が出来る。
つまり、水蒸気は分解されたり結合に使われているわけじゃなく、耳鼻科で鼻の穴を広げて薬噴霧したりするときに使う医療用の拡張器具みたいなことに使われているという事なのか?!って話。
実際のところ、ウルシオールの薄膜がガスバリア講座の高分子膜と同じ扱いに出来るのかは私の頭では限界があって恥ずかしい所よく分からない。こういうのは専門家がお高い機材を使って調べたり、難しい計算をして統計的に妥当な値なのか導き出す必要がある分野なので、市井の金継ぎ屋がどうこう出来る話じゃないから、あくまで推測の域を出ないのだが、水蒸気の使われ方がほとんど見当たらない以上、期待値高めの推論にはなるような感じがする。
ちなみに、湿度と高分子の隙間と酸素透過の関連グラフを見ると、相対湿度30%前後が一番低く、酸素が透過しない。ということは、仮に水蒸気が漆膜の隙間に関与しているなら、相対湿度30%辺りで漆を保管すると最も酵素が酸素と結合しにくく適値だという事にもなる。湿度は低ければ低いほど保管に良いということにならないし、グラフ通りだったとしたら湿度0%で漆が乾く可能性も考えられるわけだから、これはこれで結構衝撃的な話になったりしそうな感じもする。

金継ぎについて質問を受けたのがきっかけで、そこからウルシオールが酸化して固まるというのを改めて勉強して知識を整理しておかないとアカンかな。と痛感し、ネットで漆関連のサイトを見たり、ネットで見られる範囲の論文を読んだりしていて、漆が固まるのに湿度が必要つまり水蒸気が必要だという見解は共通して登場するものの、では実際に水蒸気がどういった使われ方をしているのかという具体的な話になると殆ど説明されていない感じがしなくね?という事実に気付く。
「酵素がウルシオールの酸化に水蒸気を利用している」とか、「水から酸素を取り出して使っている」という説明は見るのだが、では、H2つとО1つはどのように分解されて、それぞれがどういう経緯で使われたり放出されたりする等の、そういう話が見当たらない。結構、いろいろ見たのだが、カテコールが酵素の脱水素作用で繋がるとか、側鎖とカテコールが繋がるという話は多いのに、そこに水が介在するという話が出てこない。
漆は相対湿度が60%を下回ると恐ろしく乾かないというのは事実で、だから冬は漆風呂の管理とか大変なわけだから水蒸気が何かの役に立っていることは間違いない。だが、漆の方向から調べても結論が出ないということで、仕方がないから湿度と酸素の関係から更に検索範囲を広げてサイトをあたっていたところ、湿度が上がると酸素透過が高くなるという話を見付けた。アドレスから元をたどってみた所、三菱ケミカル株式会社が作成しているエチレン-ビニルアルコール共重合樹脂「ソアノール」という樹脂膜に関するサイトで、その中の、物を包む事についての基礎知識の8番の酸素透過係数の湿度依存性というPDFだった。
三菱ケミカル株式会社 ガスバリア講座のサイト
www.soarnol.com/jpn/solution/
8番だけ読んでも用語がよく分からないので1番から読み直してみたところ、要するに、ヒドロキシ基(OHのでっぱり)を持つ高分子は、相対湿度が60%を超えると高分子の隙間(穴っぽこ)に侵入した水分子が増えて隙間を広げる。そのため高分子膜は相対湿度が上がると酸素の透過度が高くなる。という事なのだそうだ。
そうえいば、水というのは世界最強の濡れ、つまり隙間侵入能力を持っているから、とにかく接着の邪魔になるというのは接着剤の本で読んだことがある。そして、ウルシオールのカテコールはヒドロキシ基を2つ持っていて、そのうちの1つが酵素によって脱水素されて酸化するが、もう1個ヒドロキシ基が残っていれば、漆が乾き始めた時の表面って、ヒドロキシ基を持った高分子の極薄膜って事になるんじゃないのか?それが湿度60%を超えると、水蒸気によって隙間が広がり酸素が透過して、極薄膜の下の酵素が奪った水素と結合し水として放出することが可能になり、酵素が活性化する、と。そんな風に推測する事が出来る。
つまり、水蒸気は分解されたり結合に使われているわけじゃなく、耳鼻科で鼻の穴を広げて薬噴霧したりするときに使う医療用の拡張器具みたいなことに使われているという事なのか?!って話。
実際のところ、ウルシオールの薄膜がガスバリア講座の高分子膜と同じ扱いに出来るのかは私の頭では限界があって恥ずかしい所よく分からない。こういうのは専門家がお高い機材を使って調べたり、難しい計算をして統計的に妥当な値なのか導き出す必要がある分野なので、市井の金継ぎ屋がどうこう出来る話じゃないから、あくまで推測の域を出ないのだが、水蒸気の使われ方がほとんど見当たらない以上、期待値高めの推論にはなるような感じがする。
ちなみに、湿度と高分子の隙間と酸素透過の関連グラフを見ると、相対湿度30%前後が一番低く、酸素が透過しない。ということは、仮に水蒸気が漆膜の隙間に関与しているなら、相対湿度30%辺りで漆を保管すると最も酵素が酸素と結合しにくく適値だという事にもなる。湿度は低ければ低いほど保管に良いということにならないし、グラフ通りだったとしたら湿度0%で漆が乾く可能性も考えられるわけだから、これはこれで結構衝撃的な話になったりしそうな感じもする。

陶磁器の町医者という話の補足
No.
105
:
Posted at
2024年10月20日(日)
#徒然なる日記 #金継ぎ
3つ前のログで、当時はあまりにも世の中の金継ぎに対する扱いが酷かったので、田舎に帰ったのを機に陶磁器の町医者みたいになれたら良いなと思って金継ぎ修理屋を始めたという話を書いたが、別に世のため人のためとか、何か役に立ちたいとか、そういう正義感みたいな殊勝な心掛けがあったわけではないというのは付け加えておかないといけないな、と急に気付いたので補足を書くことにした。文章を書いている時は必至だが、改めて読み直してみると何となく偉そうな物言いだった気がする。
陶磁器の町医者を目指したのは、あくまで、当時は陶磁器を真剣に直す事を考えていた人が居なそうだったから。つまり、見渡す限り誰もいないブルーオーシャンだったからという事と、ブルーオーシャンなら少なくとも人生退屈しなさそうだなと思ったからであって、それで世の中がどうこうなったり、人類が幸せになるとかは全く考えていなかった。栃木へ帰ってきたのは東京でリストラになり限界を感じたからで、今にして思えば都落ちというか落ち武者気分で結構、いつ死んでもいいかくらいに考えていたように思う。猫田さんが居たから死ぬつもりはなかったけども。
だから、金継ぎ修理屋はかなりの見切り発車だったし、今も見切り発車のままなので、金継ぎブームの波には全く乗れていないし、正直、確定申告は毎年還付請求ばかりだ。未来を見据えたりもしていないし、何か大きいことをやってやるみたいな夢も無いので個人事業主で一人で仕事していれば十分だと思っている。
まぁ、仕事の目安として、自分にとって「粋」か「無粋(野暮)」かという見極めだけは間違えないようにしたいというのは忘れないようにしているけれど。
例えば、元の陶磁器を差し置いて修理箇所が主張すること、元の陶磁器が全く違う物に見えてしまうことは、私にとって無粋。第三者が何と言おうと、器の持ち主が直して良かったと思う以上の事をするのは無粋。自分のイメージ以下の仕上がりは言うまでもなく無粋。そういう感じだ。だからいつも探り探りで不安しかない。
あなたにとって金継ぎとは何ですか?というのは、昔はよく聞かれた(今は聞く人がいるほど人付き合いが無いというだけだが)。
そういう時は必ずこう言っていた。
「自分でも何だかよく分からないんですよ。分からないから今、何となくやれてます。分かったら辛くなると思うので辞め時ってことでしょうね。」
3つ前のログで、当時はあまりにも世の中の金継ぎに対する扱いが酷かったので、田舎に帰ったのを機に陶磁器の町医者みたいになれたら良いなと思って金継ぎ修理屋を始めたという話を書いたが、別に世のため人のためとか、何か役に立ちたいとか、そういう正義感みたいな殊勝な心掛けがあったわけではないというのは付け加えておかないといけないな、と急に気付いたので補足を書くことにした。文章を書いている時は必至だが、改めて読み直してみると何となく偉そうな物言いだった気がする。
陶磁器の町医者を目指したのは、あくまで、当時は陶磁器を真剣に直す事を考えていた人が居なそうだったから。つまり、見渡す限り誰もいないブルーオーシャンだったからという事と、ブルーオーシャンなら少なくとも人生退屈しなさそうだなと思ったからであって、それで世の中がどうこうなったり、人類が幸せになるとかは全く考えていなかった。栃木へ帰ってきたのは東京でリストラになり限界を感じたからで、今にして思えば都落ちというか落ち武者気分で結構、いつ死んでもいいかくらいに考えていたように思う。猫田さんが居たから死ぬつもりはなかったけども。
だから、金継ぎ修理屋はかなりの見切り発車だったし、今も見切り発車のままなので、金継ぎブームの波には全く乗れていないし、正直、確定申告は毎年還付請求ばかりだ。未来を見据えたりもしていないし、何か大きいことをやってやるみたいな夢も無いので個人事業主で一人で仕事していれば十分だと思っている。
まぁ、仕事の目安として、自分にとって「粋」か「無粋(野暮)」かという見極めだけは間違えないようにしたいというのは忘れないようにしているけれど。
例えば、元の陶磁器を差し置いて修理箇所が主張すること、元の陶磁器が全く違う物に見えてしまうことは、私にとって無粋。第三者が何と言おうと、器の持ち主が直して良かったと思う以上の事をするのは無粋。自分のイメージ以下の仕上がりは言うまでもなく無粋。そういう感じだ。だからいつも探り探りで不安しかない。
あなたにとって金継ぎとは何ですか?というのは、昔はよく聞かれた(今は聞く人がいるほど人付き合いが無いというだけだが)。
そういう時は必ずこう言っていた。
「自分でも何だかよく分からないんですよ。分からないから今、何となくやれてます。分かったら辛くなると思うので辞め時ってことでしょうね。」
柿渋は下手物ではないという話
No.
104
:
Posted at
2024年09月27日(金)
#どうでもいい思い付き #徒然なる日記 #柿渋
渋い梨をどうすれば食えるか調べているうち、渋柿に含まれるカテキン(渋柿ポリフェノール)に興味が出てきた。
だいぶ昔に柿渋を買ってはみたものの強烈な〇ンコ臭で断念したことを思い出したが、今は無臭の柿渋があるということで、またちょっと気になってきて無臭柿渋を買ってみたところ本当に無臭で驚いた。
せっかく買ったのでネットで柿渋の使い方を調べていて、もしかしたら陶胎漆器に塗ったら良い感じになったりするのかもしれないと閃く。
実は、少し前、試験的に日常使いしていた陶胎漆器の飯椀に米粒が固着していたため水を付けて爪でカリカリやっていたら、表面の漆が素地もろとも剥げるという基材破壊を起こしてしまい、やっぱりもう少し下地から何とかしないと安心して使うのは難しそうだと実感したので、それも兼ねて素焼き素地に柿渋を塗ったらどうかと気付くのは自然な流れであろう。
テスト用の素焼き素地はたくさんあるので、柿渋を水で薄めて濃さを変えながら刷毛で塗ってみる。1回塗ってもほとんど吸い込まれてしまい表面に柿渋は残らない。瓶から出した状態の柿渋であれば2回塗ると表面に極薄い塗膜が出来て光沢が出てくるのだが、2倍に希釈すると5,6回塗ってやっと吸い込みは止まってくるが塗膜のような光沢が出ることはない。陶胎漆器の下地に使うなら希釈せず塗る方が良いのかなと思ったが、試しに素地を指で弾いてみたところ音が全く違う。希釈なしの2回塗りは塗っていない素地と似たような音だが、希釈して何度も塗ったものは明らかに音が高く、締まった素地の音がする。
それで、柿渋というのは塗膜として使うものではなく、浸み込ませる事で素地を改善するという使い方をするものなのかと気付いた。
柿渋は漆と違い水性溶剤だ。それゆえによく浸透する。水分が無くなるとカテキンが酸化によって結合していく。その際に素地の成分も結び付けたりするのだろう。だから素地が締まった音になる。漆も柿渋もフェノール樹脂のオリゴマーが結びついてポリマーになるのは同じだが、結合する場所が違うというわけだ。
昔から漆芸では、柿渋で作った下地を「渋下地(しぶしたじ)」と呼び、漆の下地の代用品とか、安価で作るための下手物とか、要するに見下される扱いをされてきた。
私も、そういうものなのかと信じ込まされていた節があるわけだが、いや、ちょっと待てよ。これは柿渋本来のポテンシャルを見誤った考え方なのではないかと気付いた。
どちらも塗料というジャンルで見ると、確かに漆に比べれば柿渋の塗膜は弱いし、撥水性はあるにせよ長時間の耐水性までは無いかもしれない。だがそれは塗膜という土俵においての話であって、柿渋は本来、漆のような厚い被膜を作る使い方ではなく、少しずつ浸透させ胎を作るという全く異なるジャンルでこそ実力を発揮するものではないかと思う。
塗って浸透するまで待ってから、表面を布で乾拭きする。それを繰り返し、表面にうっすらと艶が出てきた状態で止める。塗膜にするのではなく、その前で完成とする。これが本来の渋下地のポテンシャルを最大限に発揮させる使い方という事になるような感じがする。
ちなみに、表面に艶が出ても止めずに塗り続けると、柿渋が弾かれて玉状になり斑が出て来るので見た目が汚いのと、著しく接着性が落ちて剥離し始めるからやらない方が良い。
渋い梨をどうすれば食えるか調べているうち、渋柿に含まれるカテキン(渋柿ポリフェノール)に興味が出てきた。
だいぶ昔に柿渋を買ってはみたものの強烈な〇ンコ臭で断念したことを思い出したが、今は無臭の柿渋があるということで、またちょっと気になってきて無臭柿渋を買ってみたところ本当に無臭で驚いた。
せっかく買ったのでネットで柿渋の使い方を調べていて、もしかしたら陶胎漆器に塗ったら良い感じになったりするのかもしれないと閃く。
実は、少し前、試験的に日常使いしていた陶胎漆器の飯椀に米粒が固着していたため水を付けて爪でカリカリやっていたら、表面の漆が素地もろとも剥げるという基材破壊を起こしてしまい、やっぱりもう少し下地から何とかしないと安心して使うのは難しそうだと実感したので、それも兼ねて素焼き素地に柿渋を塗ったらどうかと気付くのは自然な流れであろう。
テスト用の素焼き素地はたくさんあるので、柿渋を水で薄めて濃さを変えながら刷毛で塗ってみる。1回塗ってもほとんど吸い込まれてしまい表面に柿渋は残らない。瓶から出した状態の柿渋であれば2回塗ると表面に極薄い塗膜が出来て光沢が出てくるのだが、2倍に希釈すると5,6回塗ってやっと吸い込みは止まってくるが塗膜のような光沢が出ることはない。陶胎漆器の下地に使うなら希釈せず塗る方が良いのかなと思ったが、試しに素地を指で弾いてみたところ音が全く違う。希釈なしの2回塗りは塗っていない素地と似たような音だが、希釈して何度も塗ったものは明らかに音が高く、締まった素地の音がする。
それで、柿渋というのは塗膜として使うものではなく、浸み込ませる事で素地を改善するという使い方をするものなのかと気付いた。
柿渋は漆と違い水性溶剤だ。それゆえによく浸透する。水分が無くなるとカテキンが酸化によって結合していく。その際に素地の成分も結び付けたりするのだろう。だから素地が締まった音になる。漆も柿渋もフェノール樹脂のオリゴマーが結びついてポリマーになるのは同じだが、結合する場所が違うというわけだ。
昔から漆芸では、柿渋で作った下地を「渋下地(しぶしたじ)」と呼び、漆の下地の代用品とか、安価で作るための下手物とか、要するに見下される扱いをされてきた。
私も、そういうものなのかと信じ込まされていた節があるわけだが、いや、ちょっと待てよ。これは柿渋本来のポテンシャルを見誤った考え方なのではないかと気付いた。
どちらも塗料というジャンルで見ると、確かに漆に比べれば柿渋の塗膜は弱いし、撥水性はあるにせよ長時間の耐水性までは無いかもしれない。だがそれは塗膜という土俵においての話であって、柿渋は本来、漆のような厚い被膜を作る使い方ではなく、少しずつ浸透させ胎を作るという全く異なるジャンルでこそ実力を発揮するものではないかと思う。
塗って浸透するまで待ってから、表面を布で乾拭きする。それを繰り返し、表面にうっすらと艶が出てきた状態で止める。塗膜にするのではなく、その前で完成とする。これが本来の渋下地のポテンシャルを最大限に発揮させる使い方という事になるような感じがする。
ちなみに、表面に艶が出ても止めずに塗り続けると、柿渋が弾かれて玉状になり斑が出て来るので見た目が汚いのと、著しく接着性が落ちて剥離し始めるからやらない方が良い。
コンポートという必殺技の話
No.
103
:
Posted at
2024年09月06日(金)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き
講習会をやっていると、たまに食材を頂くことがある。スーパーで食材を買っていると粗方、買う物が固定されてくるので、こういう頂き物は自分の範疇外だったりして案外新鮮なものだ。頂いたのは、けっこう大きめな梨。
そろそろ梨の季節かぁと思いながら冷蔵庫で冷やし、剥いて食ってみたら、これがかなり渋い。渋柿ほどではないが、全く甘さが無い上に口の中がシブシブで喉もちょっとイガイガする。私はメロンやキウイを食うと喉がイガイガするのだが、梨でこうなるのは初めてである。
捨てるのは勿体無いし、いや、そもそも渋い梨などというものは存在するのか?とネットで調べたら、やはり渋い梨というのは存在するらしい。
そして、甘く煮ると食えるようになるのだそうだ。コンポートというお洒落な調理名も付いていると知る。コンポートというと果物を乗せる器しか知らなかったのだが(器馬鹿)、あれは料理名なのか。
しかし、焦げないように火加減を調整したり時間もかかるし、結構面倒そうなのでどうしたものかなと思いながら、もう少し簡単にどうにか出来る方法はないのかと調べたら、砂糖を掛けてレンジでチンするだけでコンポートを作れることが分かり、やってみることにした。
梨を剥いて適当に小さく切り、耐熱容器に入れたら梨1個に砂糖大さじ1~1.5を掛けて、ラップをしてレンジで加熱。それだけ。
酸化防止でレモン汁を入れたりするみたいだが、そのためにレモンやレモン汁を買うのも何だし、元々が渋い梨なのでカテキン豊富だから酸化防止はしなくてもいいだろうと加えたのは砂糖のみ。
600Wで5分くらい加熱すると梨から水が出てきて勝手にシロップに浸かったコンポートになる!あぁなるほど、梨の缶詰というのはコレかと、なかなかに感動する。

ちなみに、取り出して梨が半透明になっていない時は加熱不足なので追加で加熱するように。
あとは、粗熱を取ってから冷蔵庫で冷やすと完成なのだが、このとき閃いた。
冷やすのではなく、冷凍したら、ガリガリ君の梨味になるのではないだろうか?
シロップごと冷凍するとカッチカチの固まりになって食うのが大変なのは明白なので、梨だけ取り出して冷凍し、翌日に食ってみた。
『完全にガリガリ君の梨味である』。
冷凍すると甘みを感じにくくなるのでコンポート用だと少し甘味が足りない感じもするが、まごうことなきガリガリ君である。ジップロックに入れて冷凍し、少しずつ消費することにした。

自分の閃きは大したものだと思うと同時に、ガリガリ君の梨味を開発した赤城乳業の凄さも感じずにはいられない。ちなみに、シロップは薄めて美味しく飲みました。梨風味でこれも旨かった。
そんなわけで、図らずも梨からガリガリ君の梨味を作る方法を知ってしまった。
果物はそのまま食うのが一番旨いと思うが、もう少し日持ちさせたいとか、そのまま食うのはちょっと、という時はガリガリ君にするというのも一考だと思う。
講習会をやっていると、たまに食材を頂くことがある。スーパーで食材を買っていると粗方、買う物が固定されてくるので、こういう頂き物は自分の範疇外だったりして案外新鮮なものだ。頂いたのは、けっこう大きめな梨。
そろそろ梨の季節かぁと思いながら冷蔵庫で冷やし、剥いて食ってみたら、これがかなり渋い。渋柿ほどではないが、全く甘さが無い上に口の中がシブシブで喉もちょっとイガイガする。私はメロンやキウイを食うと喉がイガイガするのだが、梨でこうなるのは初めてである。
捨てるのは勿体無いし、いや、そもそも渋い梨などというものは存在するのか?とネットで調べたら、やはり渋い梨というのは存在するらしい。
そして、甘く煮ると食えるようになるのだそうだ。コンポートというお洒落な調理名も付いていると知る。コンポートというと果物を乗せる器しか知らなかったのだが(器馬鹿)、あれは料理名なのか。
しかし、焦げないように火加減を調整したり時間もかかるし、結構面倒そうなのでどうしたものかなと思いながら、もう少し簡単にどうにか出来る方法はないのかと調べたら、砂糖を掛けてレンジでチンするだけでコンポートを作れることが分かり、やってみることにした。
梨を剥いて適当に小さく切り、耐熱容器に入れたら梨1個に砂糖大さじ1~1.5を掛けて、ラップをしてレンジで加熱。それだけ。
酸化防止でレモン汁を入れたりするみたいだが、そのためにレモンやレモン汁を買うのも何だし、元々が渋い梨なのでカテキン豊富だから酸化防止はしなくてもいいだろうと加えたのは砂糖のみ。
600Wで5分くらい加熱すると梨から水が出てきて勝手にシロップに浸かったコンポートになる!あぁなるほど、梨の缶詰というのはコレかと、なかなかに感動する。

ちなみに、取り出して梨が半透明になっていない時は加熱不足なので追加で加熱するように。
あとは、粗熱を取ってから冷蔵庫で冷やすと完成なのだが、このとき閃いた。
冷やすのではなく、冷凍したら、ガリガリ君の梨味になるのではないだろうか?
シロップごと冷凍するとカッチカチの固まりになって食うのが大変なのは明白なので、梨だけ取り出して冷凍し、翌日に食ってみた。
『完全にガリガリ君の梨味である』。
冷凍すると甘みを感じにくくなるのでコンポート用だと少し甘味が足りない感じもするが、まごうことなきガリガリ君である。ジップロックに入れて冷凍し、少しずつ消費することにした。

自分の閃きは大したものだと思うと同時に、ガリガリ君の梨味を開発した赤城乳業の凄さも感じずにはいられない。ちなみに、シロップは薄めて美味しく飲みました。梨風味でこれも旨かった。
そんなわけで、図らずも梨からガリガリ君の梨味を作る方法を知ってしまった。
果物はそのまま食うのが一番旨いと思うが、もう少し日持ちさせたいとか、そのまま食うのはちょっと、という時はガリガリ君にするというのも一考だと思う。
スタンスを確認する、という話
No.
102
:
Posted at
2024年09月03日(火)
#金継ぎ #陶磁器修理 #徒然なる日記
古いブログには書いてあったが消えてしまったので、改めて金継ぎ修理のスタンスについて書き残しておこうと思う。というのは、金継ぎがブームになるにつれ、私の立ち位置は意外なほど世間の一般認識の金継ぎと乖離しているんだな、と気付いたからだ。
元々、金継ぎというのは漆芸という世界の端の端の端に在るか無いかもはっきりしないような感じで存在していたもので、頼まれたからやってあげるけど自発的にやる類のものではないという考え方がベースとして有ったというのはどこかで話したように思う。安価な器の金継ぎは断るという考え方は割とスタンダードだったし、その割には、やり方は適当で、漆芸家でも漆を使うの勿体ないし時間を掛けるのも面倒だから石膏とか接着剤で形にして金色に見えるように上辺だけ着彩しておけば良いじゃんという感じだったり、下地から漆を使っても木材主体で長期的に実用出来る想定の直しではなく見た目重視の装飾として行われていた。漆じゃ強度が足りない時はエポキシを使いますと公言していた漆芸家も居た。そもそも金継ぎについて質問しても答えが非常に偏っていて、基本的にはそういう風にやっているからと言われるだけで理論的な回答は殆ど無かったと言ってもいい。大都会の東京でも金継ぎはそんな感じの扱われ方をしていたというのが30年くらい前の話。
20年前に田舎へ帰ってくるのを機に、もうちょっとちゃんと使えるように陶磁器を直すことを考える人が居ても良いんじゃないか、と思って店をやることにした。
で、その時に「陶磁器の町医者」という基本コンセプトを考えた。だから、薄ピンク色の十字を真ん中にシンボルとして置いて、その周りに「本当に大切なものと 少しでも長く一緒にいたい そんな想いのために」とキャッチコピーを記述したチラシを作って陶器店を周ったりした。「ほん陶」という店の名前は、このキャッチコピーをもじったもので、本当にちゃんと直しているんだよ、という意味も込められている。ホームページにも同じ文言を付けていたが、長いので今は「いつまでも大切に使いたい想いのために」と短くしているが、気持ちは変わっていないつもり。
そんなわけで、私にとって金継ぎというのはあくまでも修理というか、治療みたいなスタンスだ。
実際にお医者さんがどういう考えで病院をやっているのかは知らないが、私は、入院した人が、元の生活に戻れるように最善を尽くすのが医者じゃないのかと思っていて、陶磁器の町医者も同じだろうと考えている。
入院した人が以前と同じ毎日を続けられるようなったら退院OKなわけで、患者をアスリートや天才になる英才教育を施して退院させる必要はないと考えている。だから、金継ぎはアートや自己表現行為だとか、直した器は付加価値の付いた作品だとは考えていない。当然、患者様である器の情報や写真は外部には一切出さない守秘義務も厳守している。
個人的な理想としては「わぁ~金継ぎがしてある!」と思われるよりも「言われてみれば金継ぎしてあるね」程度に気付いてもらえるくらいが御の字だろうと思っている。大切なのは金継ぎした事ではなく、器が少しでも長く以前と同じ毎日が続けられるようになること、元の器にとってベストであること、それをするのが陶磁器の町医者の仕事じゃないかなと思う。(怪我してないのに顔に絆創膏付けて可愛さアピールするヤンキー文化って昔あったね、そういえば。あんまり関係ないけど急に思い出した。)
というわけで、私自身は金継ぎで表現者になる気は無いし、自分の事を金継ぎ師とか金継ぎ作家と名乗った事は全くない(&今後も名乗る予定はない)のだが、かと言って、ヤブ医者だと思われるのは嫌だし、民間療法じみた事に似非科学で色を付けた医者気取りにもなりたくないので、地味でもちゃんとした治療が出来る陶磁器の医者ではいたいよなぁと常々思ってはいる。
とはいえ、実際は分からない事も多いし、毎回、本当にこれで良かったのかと思いながら器を返却しているのが実情で、個人的な理想を盾にお客様の大切な器に私が手を入れちゃってすみませんと心の中では思ってます、はい。
こんなスタンスでやっているので、最近、結構暇なんです。世間のブームとは隔絶された陶磁器修理屋でございますが、ご縁を感じる時がございましたらどうぞ気軽にお声掛け下さい。よろしくお願いいたします。
古いブログには書いてあったが消えてしまったので、改めて金継ぎ修理のスタンスについて書き残しておこうと思う。というのは、金継ぎがブームになるにつれ、私の立ち位置は意外なほど世間の一般認識の金継ぎと乖離しているんだな、と気付いたからだ。
元々、金継ぎというのは漆芸という世界の端の端の端に在るか無いかもはっきりしないような感じで存在していたもので、頼まれたからやってあげるけど自発的にやる類のものではないという考え方がベースとして有ったというのはどこかで話したように思う。安価な器の金継ぎは断るという考え方は割とスタンダードだったし、その割には、やり方は適当で、漆芸家でも漆を使うの勿体ないし時間を掛けるのも面倒だから石膏とか接着剤で形にして金色に見えるように上辺だけ着彩しておけば良いじゃんという感じだったり、下地から漆を使っても木材主体で長期的に実用出来る想定の直しではなく見た目重視の装飾として行われていた。漆じゃ強度が足りない時はエポキシを使いますと公言していた漆芸家も居た。そもそも金継ぎについて質問しても答えが非常に偏っていて、基本的にはそういう風にやっているからと言われるだけで理論的な回答は殆ど無かったと言ってもいい。大都会の東京でも金継ぎはそんな感じの扱われ方をしていたというのが30年くらい前の話。
20年前に田舎へ帰ってくるのを機に、もうちょっとちゃんと使えるように陶磁器を直すことを考える人が居ても良いんじゃないか、と思って店をやることにした。
で、その時に「陶磁器の町医者」という基本コンセプトを考えた。だから、薄ピンク色の十字を真ん中にシンボルとして置いて、その周りに「本当に大切なものと 少しでも長く一緒にいたい そんな想いのために」とキャッチコピーを記述したチラシを作って陶器店を周ったりした。「ほん陶」という店の名前は、このキャッチコピーをもじったもので、本当にちゃんと直しているんだよ、という意味も込められている。ホームページにも同じ文言を付けていたが、長いので今は「いつまでも大切に使いたい想いのために」と短くしているが、気持ちは変わっていないつもり。
そんなわけで、私にとって金継ぎというのはあくまでも修理というか、治療みたいなスタンスだ。
実際にお医者さんがどういう考えで病院をやっているのかは知らないが、私は、入院した人が、元の生活に戻れるように最善を尽くすのが医者じゃないのかと思っていて、陶磁器の町医者も同じだろうと考えている。
入院した人が以前と同じ毎日を続けられるようなったら退院OKなわけで、患者をアスリートや天才になる英才教育を施して退院させる必要はないと考えている。だから、金継ぎはアートや自己表現行為だとか、直した器は付加価値の付いた作品だとは考えていない。当然、患者様である器の情報や写真は外部には一切出さない守秘義務も厳守している。
個人的な理想としては「わぁ~金継ぎがしてある!」と思われるよりも「言われてみれば金継ぎしてあるね」程度に気付いてもらえるくらいが御の字だろうと思っている。大切なのは金継ぎした事ではなく、器が少しでも長く以前と同じ毎日が続けられるようになること、元の器にとってベストであること、それをするのが陶磁器の町医者の仕事じゃないかなと思う。(怪我してないのに顔に絆創膏付けて可愛さアピールするヤンキー文化って昔あったね、そういえば。あんまり関係ないけど急に思い出した。)
というわけで、私自身は金継ぎで表現者になる気は無いし、自分の事を金継ぎ師とか金継ぎ作家と名乗った事は全くない(&今後も名乗る予定はない)のだが、かと言って、ヤブ医者だと思われるのは嫌だし、民間療法じみた事に似非科学で色を付けた医者気取りにもなりたくないので、地味でもちゃんとした治療が出来る陶磁器の医者ではいたいよなぁと常々思ってはいる。
とはいえ、実際は分からない事も多いし、毎回、本当にこれで良かったのかと思いながら器を返却しているのが実情で、個人的な理想を盾にお客様の大切な器に私が手を入れちゃってすみませんと心の中では思ってます、はい。
こんなスタンスでやっているので、最近、結構暇なんです。世間のブームとは隔絶された陶磁器修理屋でございますが、ご縁を感じる時がございましたらどうぞ気軽にお声掛け下さい。よろしくお願いいたします。
錆漆のキモは水だったという話
No.
101
:
Posted at
2024年08月23日(金)
#金継ぎ #ガラス用漆 #どうでもいい思い付き
古いブログを削除してしまったため、いつから使っていたか正確には言えないのだが、店を始めたかなり初期の頃にどこかのサイトでシランカップリング剤を漆に入れるとガラスに良く密着するようになるという話を見付け、サイトの主にメールを出したところ、ガラス用漆というのを売っている店があると教えて頂いた。内容物が全く記載されていないため、サイトで記述したようなシランカップリング剤を入れた漆か確証はないとの事だったが、東京の陶芸教室で仕事をしていた頃に「液体セラミック」というシランモノマー液を目止め剤として使っており、今は説明が省かれているが、昔は容器のラベルにコンクリートなどに浸透してポリマー化しシリカと結びついて防水効果を発揮する。アメリカの衛生法取得した安全性の高い薬剤といった内容の説明書きがされていて、シランがどんな物なのかは何となく分かっていたし、全く異なる方法でガラスと漆を結び付けるとも考えにくく、当たらずとも遠からずな漆なのだろうと試しに購入。陶磁器も鉱物粉をガラスで焼き固めている物質なのだから、通常の漆よりは間違くなく結合力は高かろうということで金継ぎに使う事にした。
実際、錆漆に使う砥の粉の成分はほぼ100%シリカ(二酸化ケイ素)なのでガラス用漆で作った錆漆は非常に硬く丈夫であり、スライドガラスに付けて乾かすと水に浸けてもちょっとやそっとでは取れないから、まぁ間違いなくシランカップリングが作用していると思われる。(その後、いつからか陶磁器にも使えるとか、金継ぎに使えるという説明書きが付くようになっていた)
そんなわけで、その時に見付けたガラス用漆を20年近くは使っていたわけだが、シランカップリング剤や漆の高騰でガラス用漆もやたら値段が高くなってしまい購入するのにも勇気が必要になってきたため、他の漆屋のサイトをいくつか見て、値段が3割くらい安いガラス用漆を購入してみた。今まで使っていたものよりも少し粘り気が強いかなという感じはしたが、多少の差こそあれ何処で買っても大差はないだろうと甘く見ていたのが仇になる。
これまでと同じ砥の粉、配合で錆を作るも、なかなか混じらない上に、作った錆が全く固まらない。漆だけならば問題なく固まるが、錆にすると何故か固まらない。配合の問題かと思って漆と水と砥の粉の割合を変えてみても、表面は僅かに乾くことはあれど押すとプニプニして中まで固まる気配なし。
同じガラス用漆だと思っていたが、よもや全く違うものなのかもしれないと思いながら、もしかしたらと水をpH試験紙で測定したところ青色に変色。pH8のアルカリ性だった。水道水はずっと中性(pH7)と疑わずにいたのだが、調べたら意外と塩素の量をまめに調整しているらしく、水道水というのはpH5.8以上8.6以下と幅があると知る。
今年は暑いから雑菌繁殖抑制のために塩素多目で調整されているのかもしれない。だから、うちの水道水はpH8~8.6になっているのか。
すぐさまドラッグストアで精製水を購入し、それで錆を作ってみたところ以前のガラス用漆よりも時間は掛かるものの同じように固まったことで、原因が水のpHだと確信。
pHの問題ということならば、アルカリ性の水道水もクエン酸で調整してpH7にすれば固まるのではないか?と試してみたところ、やはり時間は掛かるが中まで固まった。ただし、爪を立てると硬くはなっているし、爪の跡が付くほどではないのだが職人の勘レベルで硬さに違いがあるような感じがする。同じpH値ではあっても、精製水のように不純物がほぼほぼゼロのpH7と、塩素やクエン酸が入ったpH7では、硬化に差が出るということなのかもしれない。
錆漆は水を入れた本堅地は硬度が低く、無水の堅地こそが最も硬度が高いというのは昔から言われている事なのだが、私が昔、鉛筆硬度法で調べた限り大きな差は無かったため加水の有無は関係しないのではないかと考えてきた。
で、思い出したのだが、硬さを調べていた頃は確か当時最も不純物を除去できるとされていたフィルタの国産浄水器を使って濾過した水を使っていた。
フィルターの値上がりが半端ないので何年か前から飲料用は外国の浄水ポットを使うようになり、更にフィルタはサードパーティーの中国製にして、金継ぎ用はそれも使わず水道水をそのまま使うようになっていた。
それでも以前に使っていたガラス用漆は頑張って固まってくれていたわけだが、以前のものよりも安めのガラス用漆(それでも通常の素黒目漆よりは高いのだが)は顕著に水の違いに反応してしまったという事なのか、と目から鱗である。
錆漆の硬度、言い換えれば漆の硬化なわけだが、それは水の質に大きく影響を受ける。
pHの影響が一番大きいのは言うまでもないが、たとえ同じpHであっても、精製水のように限りなく純粋なH2Oに近いものほど錆漆は硬く、不純物が増えるほど硬度は落ちる。そういう事なのだ。
私は陶芸視点で錆を見るため、錆はあくまでも可塑性のある粘土であり、粘土の粘りを生むには水が必須であり加水は当然であった。だが、塗料を塗り重ねるという漆芸の視点では、水を抜いて鉱物と混ぜるという発想が生まれるのだろう。塗料は塗るための接着性と乾いた後の硬さは必要だが可塑性はむしろ邪魔になるし、水という不安定要素は排除する方が賢明だということで、加水しない方が硬いという言い方が生まれたのではないかとも考えられる。
当然と言えば当然なのだが、私にとっては完全な盲点であった。
なお、最終的に、安い方のガラス用漆を配合から調整し直して仕事に使うのは流石に時間も掛かるし面倒ということで、良い勉強になりましたと言って冷蔵庫で眠りについて頂く事にして、以前に使っていたガラス用漆を買い直す事にした。痛い出費ではあるが致し方ない。
それと、今後、錆漆を作る時には精製水を使うと決めた。精製水はドラッグストアで安価に購入出来るのは、せめてもの救いである。
古いブログを削除してしまったため、いつから使っていたか正確には言えないのだが、店を始めたかなり初期の頃にどこかのサイトでシランカップリング剤を漆に入れるとガラスに良く密着するようになるという話を見付け、サイトの主にメールを出したところ、ガラス用漆というのを売っている店があると教えて頂いた。内容物が全く記載されていないため、サイトで記述したようなシランカップリング剤を入れた漆か確証はないとの事だったが、東京の陶芸教室で仕事をしていた頃に「液体セラミック」というシランモノマー液を目止め剤として使っており、今は説明が省かれているが、昔は容器のラベルにコンクリートなどに浸透してポリマー化しシリカと結びついて防水効果を発揮する。アメリカの衛生法取得した安全性の高い薬剤といった内容の説明書きがされていて、シランがどんな物なのかは何となく分かっていたし、全く異なる方法でガラスと漆を結び付けるとも考えにくく、当たらずとも遠からずな漆なのだろうと試しに購入。陶磁器も鉱物粉をガラスで焼き固めている物質なのだから、通常の漆よりは間違くなく結合力は高かろうということで金継ぎに使う事にした。
実際、錆漆に使う砥の粉の成分はほぼ100%シリカ(二酸化ケイ素)なのでガラス用漆で作った錆漆は非常に硬く丈夫であり、スライドガラスに付けて乾かすと水に浸けてもちょっとやそっとでは取れないから、まぁ間違いなくシランカップリングが作用していると思われる。(その後、いつからか陶磁器にも使えるとか、金継ぎに使えるという説明書きが付くようになっていた)
そんなわけで、その時に見付けたガラス用漆を20年近くは使っていたわけだが、シランカップリング剤や漆の高騰でガラス用漆もやたら値段が高くなってしまい購入するのにも勇気が必要になってきたため、他の漆屋のサイトをいくつか見て、値段が3割くらい安いガラス用漆を購入してみた。今まで使っていたものよりも少し粘り気が強いかなという感じはしたが、多少の差こそあれ何処で買っても大差はないだろうと甘く見ていたのが仇になる。
これまでと同じ砥の粉、配合で錆を作るも、なかなか混じらない上に、作った錆が全く固まらない。漆だけならば問題なく固まるが、錆にすると何故か固まらない。配合の問題かと思って漆と水と砥の粉の割合を変えてみても、表面は僅かに乾くことはあれど押すとプニプニして中まで固まる気配なし。
同じガラス用漆だと思っていたが、よもや全く違うものなのかもしれないと思いながら、もしかしたらと水をpH試験紙で測定したところ青色に変色。pH8のアルカリ性だった。水道水はずっと中性(pH7)と疑わずにいたのだが、調べたら意外と塩素の量をまめに調整しているらしく、水道水というのはpH5.8以上8.6以下と幅があると知る。
今年は暑いから雑菌繁殖抑制のために塩素多目で調整されているのかもしれない。だから、うちの水道水はpH8~8.6になっているのか。
すぐさまドラッグストアで精製水を購入し、それで錆を作ってみたところ以前のガラス用漆よりも時間は掛かるものの同じように固まったことで、原因が水のpHだと確信。
pHの問題ということならば、アルカリ性の水道水もクエン酸で調整してpH7にすれば固まるのではないか?と試してみたところ、やはり時間は掛かるが中まで固まった。ただし、爪を立てると硬くはなっているし、爪の跡が付くほどではないのだが職人の勘レベルで硬さに違いがあるような感じがする。同じpH値ではあっても、精製水のように不純物がほぼほぼゼロのpH7と、塩素やクエン酸が入ったpH7では、硬化に差が出るということなのかもしれない。
錆漆は水を入れた本堅地は硬度が低く、無水の堅地こそが最も硬度が高いというのは昔から言われている事なのだが、私が昔、鉛筆硬度法で調べた限り大きな差は無かったため加水の有無は関係しないのではないかと考えてきた。
で、思い出したのだが、硬さを調べていた頃は確か当時最も不純物を除去できるとされていたフィルタの国産浄水器を使って濾過した水を使っていた。
フィルターの値上がりが半端ないので何年か前から飲料用は外国の浄水ポットを使うようになり、更にフィルタはサードパーティーの中国製にして、金継ぎ用はそれも使わず水道水をそのまま使うようになっていた。
それでも以前に使っていたガラス用漆は頑張って固まってくれていたわけだが、以前のものよりも安めのガラス用漆(それでも通常の素黒目漆よりは高いのだが)は顕著に水の違いに反応してしまったという事なのか、と目から鱗である。
錆漆の硬度、言い換えれば漆の硬化なわけだが、それは水の質に大きく影響を受ける。
pHの影響が一番大きいのは言うまでもないが、たとえ同じpHであっても、精製水のように限りなく純粋なH2Oに近いものほど錆漆は硬く、不純物が増えるほど硬度は落ちる。そういう事なのだ。
私は陶芸視点で錆を見るため、錆はあくまでも可塑性のある粘土であり、粘土の粘りを生むには水が必須であり加水は当然であった。だが、塗料を塗り重ねるという漆芸の視点では、水を抜いて鉱物と混ぜるという発想が生まれるのだろう。塗料は塗るための接着性と乾いた後の硬さは必要だが可塑性はむしろ邪魔になるし、水という不安定要素は排除する方が賢明だということで、加水しない方が硬いという言い方が生まれたのではないかとも考えられる。
当然と言えば当然なのだが、私にとっては完全な盲点であった。
なお、最終的に、安い方のガラス用漆を配合から調整し直して仕事に使うのは流石に時間も掛かるし面倒ということで、良い勉強になりましたと言って冷蔵庫で眠りについて頂く事にして、以前に使っていたガラス用漆を買い直す事にした。痛い出費ではあるが致し方ない。
それと、今後、錆漆を作る時には精製水を使うと決めた。精製水はドラッグストアで安価に購入出来るのは、せめてもの救いである。