No.107
時代のどこかで贅沢の逆転は起こるという話
No.
107
:
Posted at
2024年12月05日(木)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
Youtubeを見てたら、お勧めに「【落合陽一×京都】日本文化の可能性と世界発信の戦略を考える。」という動画が出てきたので、面白そうだから見てみた。NewsPicksの呼び込み動画なので、冒頭17分の一番良いところで切れるため、その後の展開は分からないけれども(無料トライアルで見られるらしいが)、最後の部分で非常に興味深い会話があったので、ちょっと文字起こししてみる。最初の2つはゲストの言葉。それを受けてのオーナー落合陽一氏が返すという構成。
「サスティナビリティをSDGsっていう海外の解釈を入れたうえで真似るんじゃなくて、日本の文化に根差しながら上手くネットワークを張っていくだけでも、かなり魅力的なものになる。」
「日本は最先端をやってたし、今もやっているっていうことですよね。」
「多分それがね僕は誤解だと思っている。それ単純に言うとね、日本は貧しかっただけなんですよ。人類は適宜 京都の清貧さにね、清貧っていうことは素晴らしいことだって納得してきたっていう失敗があるんです。その失敗をいつも繰り返すんですけど、その源流には古代的なものの中からエッセンスを見付けてきて最先端の発展を作ろうっていう失敗があるんですよ。つまり今やっているのは20年30年40年前も毎回同じ事やってきた話と同じことをまた言われたって感じなの。でね、あれは絶対どこか間違ってる。俺はそれが何故か何か知りたくて今日この場があると思ってて。そこまで達せないとやった意味がない。」
で、これを見て急に思い出したのだが、前に、ブログかツイッターで「喫茶店でノートを開いて万年筆で文字を書くのは贅沢な時間だ。しかし元々はペンで文字を書くのが当たり前で、パソコンやスマホで文字を打つことは贅沢だったはずが、いつかどこかで逆転し、文字を打つことが当たり前で、文字を書く事の方が贅沢になった。文字を書くことが贅沢になったのはいつからだろう」という類のことを言ったな、という事。文字数的にはツイッターかもしれない。
金継ぎブームが来る前に書いたと思うんだけど、金継ぎに物語性を持たせてブームとして広まった根本は、恐らく、この贅沢の転換によるものなのだろう。
本来、物を直して使うというのは、選択肢の無い状態の中で生活を継続するための唯一の手段であって、要するに貧しいからやらざるを得ないという側面がほぼ全てと言っても良い。新たに物を求める事、買うことは贅沢であり、物を直すのは貧しさの継続に相違ない。江戸の焼き継ぎなんていうのは、貧しさ故の工夫そのものだ。
ただし極一部の数寄者だけが、茶席における直しに対して贅沢という感覚を持っていた。だから漆を使う。
消費社会が少しずつ生活習慣として溶け込んでくると、庶民感覚の直しという行動は、買い直しへと転化する。直すという貧しい生活イメージからの逃避というよりは、時間の価値が高くなることで直す時間の消費を嫌ったということが大きいのかもしれない。しかし、更に消費が進んで身の回りから直す事が消え、直しに付随していた貧しさも忘れさられて直しそのものが希少性を持ち始めると、直しは贅沢の象徴として立ち上がってくるようになる。ここへ来て、直すことは貧しく、新しいものを買うことは贅沢、という価値観が完全に逆転する。
金継ぎブームが起こったのは、恐らく、そういうことがベースになっている。金継ぎは現代における贅沢のイコンという側面の方が大きい。
以前にこのブログでも、現代の金継ぎは直すという生活を選択した象徴として機能しているのだろうと書いたことがあるが、もっと分かりやすく言えば贅沢の標榜という事なのだろう。SNSに壊れた器や金継ぎした器を載せるのは、要するに自分の贅沢を確認するということだ。しかも漆ではなく接着剤、金ではなく真鍮粉の直しが多いのは、手っ取り早く贅沢のフラグを立てたいというファスト文化な確認の表れ(ある意味、この辺に貧しさの片鱗が残っていると言えなくもない)で一時的な贅沢の逆転によるものだという事を表していると思う。
人類が京都の清貧さを素晴らしいと思うのも、清貧さに贅沢というアイコンを重ね合わせるからなのかもしれない。つまり清貧なのではなく、清貧という贅沢に対するあこがれが、人類にはサイクルとして現れるということなのではないかと思う。それを失敗とするかは直ぐに決まるものではないのかもしれないが、個人的には失敗の割合は大きいと思うので落合氏の考え方と重なるところは大きく、贅沢の逆転が起るという事と逆転の起点を認識しないまま、ずっと同じ価値観が続いていると思い込んでいる事が失敗の繰り返しを誘発するのは間違いないような気がする。贅沢は循環する。その転換点が何故起こったのかを見極めることは結構大切だという事なのだろう。
Youtubeを見てたら、お勧めに「【落合陽一×京都】日本文化の可能性と世界発信の戦略を考える。」という動画が出てきたので、面白そうだから見てみた。NewsPicksの呼び込み動画なので、冒頭17分の一番良いところで切れるため、その後の展開は分からないけれども(無料トライアルで見られるらしいが)、最後の部分で非常に興味深い会話があったので、ちょっと文字起こししてみる。最初の2つはゲストの言葉。それを受けてのオーナー落合陽一氏が返すという構成。
「サスティナビリティをSDGsっていう海外の解釈を入れたうえで真似るんじゃなくて、日本の文化に根差しながら上手くネットワークを張っていくだけでも、かなり魅力的なものになる。」
「日本は最先端をやってたし、今もやっているっていうことですよね。」
「多分それがね僕は誤解だと思っている。それ単純に言うとね、日本は貧しかっただけなんですよ。人類は適宜 京都の清貧さにね、清貧っていうことは素晴らしいことだって納得してきたっていう失敗があるんです。その失敗をいつも繰り返すんですけど、その源流には古代的なものの中からエッセンスを見付けてきて最先端の発展を作ろうっていう失敗があるんですよ。つまり今やっているのは20年30年40年前も毎回同じ事やってきた話と同じことをまた言われたって感じなの。でね、あれは絶対どこか間違ってる。俺はそれが何故か何か知りたくて今日この場があると思ってて。そこまで達せないとやった意味がない。」
で、これを見て急に思い出したのだが、前に、ブログかツイッターで「喫茶店でノートを開いて万年筆で文字を書くのは贅沢な時間だ。しかし元々はペンで文字を書くのが当たり前で、パソコンやスマホで文字を打つことは贅沢だったはずが、いつかどこかで逆転し、文字を打つことが当たり前で、文字を書く事の方が贅沢になった。文字を書くことが贅沢になったのはいつからだろう」という類のことを言ったな、という事。文字数的にはツイッターかもしれない。
金継ぎブームが来る前に書いたと思うんだけど、金継ぎに物語性を持たせてブームとして広まった根本は、恐らく、この贅沢の転換によるものなのだろう。
本来、物を直して使うというのは、選択肢の無い状態の中で生活を継続するための唯一の手段であって、要するに貧しいからやらざるを得ないという側面がほぼ全てと言っても良い。新たに物を求める事、買うことは贅沢であり、物を直すのは貧しさの継続に相違ない。江戸の焼き継ぎなんていうのは、貧しさ故の工夫そのものだ。
ただし極一部の数寄者だけが、茶席における直しに対して贅沢という感覚を持っていた。だから漆を使う。
消費社会が少しずつ生活習慣として溶け込んでくると、庶民感覚の直しという行動は、買い直しへと転化する。直すという貧しい生活イメージからの逃避というよりは、時間の価値が高くなることで直す時間の消費を嫌ったということが大きいのかもしれない。しかし、更に消費が進んで身の回りから直す事が消え、直しに付随していた貧しさも忘れさられて直しそのものが希少性を持ち始めると、直しは贅沢の象徴として立ち上がってくるようになる。ここへ来て、直すことは貧しく、新しいものを買うことは贅沢、という価値観が完全に逆転する。
金継ぎブームが起こったのは、恐らく、そういうことがベースになっている。金継ぎは現代における贅沢のイコンという側面の方が大きい。
以前にこのブログでも、現代の金継ぎは直すという生活を選択した象徴として機能しているのだろうと書いたことがあるが、もっと分かりやすく言えば贅沢の標榜という事なのだろう。SNSに壊れた器や金継ぎした器を載せるのは、要するに自分の贅沢を確認するということだ。しかも漆ではなく接着剤、金ではなく真鍮粉の直しが多いのは、手っ取り早く贅沢のフラグを立てたいというファスト文化な確認の表れ(ある意味、この辺に貧しさの片鱗が残っていると言えなくもない)で一時的な贅沢の逆転によるものだという事を表していると思う。
人類が京都の清貧さを素晴らしいと思うのも、清貧さに贅沢というアイコンを重ね合わせるからなのかもしれない。つまり清貧なのではなく、清貧という贅沢に対するあこがれが、人類にはサイクルとして現れるということなのではないかと思う。それを失敗とするかは直ぐに決まるものではないのかもしれないが、個人的には失敗の割合は大きいと思うので落合氏の考え方と重なるところは大きく、贅沢の逆転が起るという事と逆転の起点を認識しないまま、ずっと同じ価値観が続いていると思い込んでいる事が失敗の繰り返しを誘発するのは間違いないような気がする。贅沢は循環する。その転換点が何故起こったのかを見極めることは結構大切だという事なのだろう。