猫田に小判 -新館 -

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No.104, No.103, No.102, No.101, No.100, No.99, No.987件]

柿渋は下手物ではないという話

No. 104 :
#どうでもいい思い付き #徒然なる日記 #柿渋

渋い梨をどうすれば食えるか調べているうち、渋柿に含まれるカテキン(渋柿ポリフェノール)に興味が出てきた。
だいぶ昔に柿渋を買ってはみたものの強烈な〇ンコ臭で断念したことを思い出したが、今は無臭の柿渋があるということで、またちょっと気になってきて無臭柿渋を買ってみたところ本当に無臭で驚いた。
せっかく買ったのでネットで柿渋の使い方を調べていて、もしかしたら陶胎漆器に塗ったら良い感じになったりするのかもしれないと閃く。
実は、少し前、試験的に日常使いしていた陶胎漆器の飯椀に米粒が固着していたため水を付けて爪でカリカリやっていたら、表面の漆が素地もろとも剥げるという基材破壊を起こしてしまい、やっぱりもう少し下地から何とかしないと安心して使うのは難しそうだと実感したので、それも兼ねて素焼き素地に柿渋を塗ったらどうかと気付くのは自然な流れであろう。

テスト用の素焼き素地はたくさんあるので、柿渋を水で薄めて濃さを変えながら刷毛で塗ってみる。1回塗ってもほとんど吸い込まれてしまい表面に柿渋は残らない。瓶から出した状態の柿渋であれば2回塗ると表面に極薄い塗膜が出来て光沢が出てくるのだが、2倍に希釈すると5,6回塗ってやっと吸い込みは止まってくるが塗膜のような光沢が出ることはない。陶胎漆器の下地に使うなら希釈せず塗る方が良いのかなと思ったが、試しに素地を指で弾いてみたところ音が全く違う。希釈なしの2回塗りは塗っていない素地と似たような音だが、希釈して何度も塗ったものは明らかに音が高く、締まった素地の音がする。

それで、柿渋というのは塗膜として使うものではなく、浸み込ませる事で素地を改善するという使い方をするものなのかと気付いた。
柿渋は漆と違い水性溶剤だ。それゆえによく浸透する。水分が無くなるとカテキンが酸化によって結合していく。その際に素地の成分も結び付けたりするのだろう。だから素地が締まった音になる。漆も柿渋もフェノール樹脂のオリゴマーが結びついてポリマーになるのは同じだが、結合する場所が違うというわけだ。

昔から漆芸では、柿渋で作った下地を「渋下地(しぶしたじ)」と呼び、漆の下地の代用品とか、安価で作るための下手物とか、要するに見下される扱いをされてきた。
私も、そういうものなのかと信じ込まされていた節があるわけだが、いや、ちょっと待てよ。これは柿渋本来のポテンシャルを見誤った考え方なのではないかと気付いた。
どちらも塗料というジャンルで見ると、確かに漆に比べれば柿渋の塗膜は弱いし、撥水性はあるにせよ長時間の耐水性までは無いかもしれない。だがそれは塗膜という土俵においての話であって、柿渋は本来、漆のような厚い被膜を作る使い方ではなく、少しずつ浸透させ胎を作るという全く異なるジャンルでこそ実力を発揮するものではないかと思う。

塗って浸透するまで待ってから、表面を布で乾拭きする。それを繰り返し、表面にうっすらと艶が出てきた状態で止める。塗膜にするのではなく、その前で完成とする。これが本来の渋下地のポテンシャルを最大限に発揮させる使い方という事になるような感じがする。
ちなみに、表面に艶が出ても止めずに塗り続けると、柿渋が弾かれて玉状になり斑が出て来るので見た目が汚いのと、著しく接着性が落ちて剥離し始めるからやらない方が良い。

〔 1423文字 〕 編集

コンポートという必殺技の話

No. 103 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

講習会をやっていると、たまに食材を頂くことがある。スーパーで食材を買っていると粗方、買う物が固定されてくるので、こういう頂き物は自分の範疇外だったりして案外新鮮なものだ。頂いたのは、けっこう大きめな梨。
そろそろ梨の季節かぁと思いながら冷蔵庫で冷やし、剥いて食ってみたら、これがかなり渋い。渋柿ほどではないが、全く甘さが無い上に口の中がシブシブで喉もちょっとイガイガする。私はメロンやキウイを食うと喉がイガイガするのだが、梨でこうなるのは初めてである。

捨てるのは勿体無いし、いや、そもそも渋い梨などというものは存在するのか?とネットで調べたら、やはり渋い梨というのは存在するらしい。
そして、甘く煮ると食えるようになるのだそうだ。コンポートというお洒落な調理名も付いていると知る。コンポートというと果物を乗せる器しか知らなかったのだが(器馬鹿)、あれは料理名なのか。
しかし、焦げないように火加減を調整したり時間もかかるし、結構面倒そうなのでどうしたものかなと思いながら、もう少し簡単にどうにか出来る方法はないのかと調べたら、砂糖を掛けてレンジでチンするだけでコンポートを作れることが分かり、やってみることにした。

梨を剥いて適当に小さく切り、耐熱容器に入れたら梨1個に砂糖大さじ1~1.5を掛けて、ラップをしてレンジで加熱。それだけ。
酸化防止でレモン汁を入れたりするみたいだが、そのためにレモンやレモン汁を買うのも何だし、元々が渋い梨なのでカテキン豊富だから酸化防止はしなくてもいいだろうと加えたのは砂糖のみ。

600Wで5分くらい加熱すると梨から水が出てきて勝手にシロップに浸かったコンポートになる!あぁなるほど、梨の缶詰というのはコレかと、なかなかに感動する。

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ちなみに、取り出して梨が半透明になっていない時は加熱不足なので追加で加熱するように。
あとは、粗熱を取ってから冷蔵庫で冷やすと完成なのだが、このとき閃いた。

冷やすのではなく、冷凍したら、ガリガリ君の梨味になるのではないだろうか?

シロップごと冷凍するとカッチカチの固まりになって食うのが大変なのは明白なので、梨だけ取り出して冷凍し、翌日に食ってみた。

『完全にガリガリ君の梨味である』。

冷凍すると甘みを感じにくくなるのでコンポート用だと少し甘味が足りない感じもするが、まごうことなきガリガリ君である。ジップロックに入れて冷凍し、少しずつ消費することにした。

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自分の閃きは大したものだと思うと同時に、ガリガリ君の梨味を開発した赤城乳業の凄さも感じずにはいられない。ちなみに、シロップは薄めて美味しく飲みました。梨風味でこれも旨かった。

そんなわけで、図らずも梨からガリガリ君の梨味を作る方法を知ってしまった。
果物はそのまま食うのが一番旨いと思うが、もう少し日持ちさせたいとか、そのまま食うのはちょっと、という時はガリガリ君にするというのも一考だと思う。

〔 1264文字 〕 編集

スタンスを確認する、という話

No. 102 :
#金継ぎ #陶磁器修理 #徒然なる日記

古いブログには書いてあったが消えてしまったので、改めて金継ぎ修理のスタンスについて書き残しておこうと思う。というのは、金継ぎがブームになるにつれ、私の立ち位置は意外なほど世間の一般認識の金継ぎと乖離しているんだな、と気付いたからだ。

元々、金継ぎというのは漆芸という世界の端の端の端に在るか無いかもはっきりしないような感じで存在していたもので、頼まれたからやってあげるけど自発的にやる類のものではないという考え方がベースとして有ったというのはどこかで話したように思う。安価な器の金継ぎは断るという考え方は割とスタンダードだったし、その割には、やり方は適当で、漆芸家でも漆を使うの勿体ないし時間を掛けるのも面倒だから石膏とか接着剤で形にして金色に見えるように上辺だけ着彩しておけば良いじゃんという感じだったり、下地から漆を使っても木材主体で長期的に実用出来る想定の直しではなく見た目重視の装飾として行われていた。漆じゃ強度が足りない時はエポキシを使いますと公言していた漆芸家も居た。そもそも金継ぎについて質問しても答えが非常に偏っていて、基本的にはそういう風にやっているからと言われるだけで理論的な回答は殆ど無かったと言ってもいい。大都会の東京でも金継ぎはそんな感じの扱われ方をしていたというのが30年くらい前の話。
20年前に田舎へ帰ってくるのを機に、もうちょっとちゃんと使えるように陶磁器を直すことを考える人が居ても良いんじゃないか、と思って店をやることにした。

で、その時に「陶磁器の町医者」という基本コンセプトを考えた。だから、薄ピンク色の十字を真ん中にシンボルとして置いて、その周りに「本当に大切なものと 少しでも長く一緒にいたい そんな想いのために」とキャッチコピーを記述したチラシを作って陶器店を周ったりした。「ほん陶」という店の名前は、このキャッチコピーをもじったもので、本当にちゃんと直しているんだよ、という意味も込められている。ホームページにも同じ文言を付けていたが、長いので今は「いつまでも大切に使いたい想いのために」と短くしているが、気持ちは変わっていないつもり。

そんなわけで、私にとって金継ぎというのはあくまでも修理というか、治療みたいなスタンスだ。
実際にお医者さんがどういう考えで病院をやっているのかは知らないが、私は、入院した人が、元の生活に戻れるように最善を尽くすのが医者じゃないのかと思っていて、陶磁器の町医者も同じだろうと考えている。
入院した人が以前と同じ毎日を続けられるようなったら退院OKなわけで、患者をアスリートや天才になる英才教育を施して退院させる必要はないと考えている。だから、金継ぎはアートや自己表現行為だとか、直した器は付加価値の付いた作品だとは考えていない。当然、患者様である器の情報や写真は外部には一切出さない守秘義務も厳守している。
個人的な理想としては「わぁ~金継ぎがしてある!」と思われるよりも「言われてみれば金継ぎしてあるね」程度に気付いてもらえるくらいが御の字だろうと思っている。大切なのは金継ぎした事ではなく、器が少しでも長く以前と同じ毎日が続けられるようになること、元の器にとってベストであること、それをするのが陶磁器の町医者の仕事じゃないかなと思う。(怪我してないのに顔に絆創膏付けて可愛さアピールするヤンキー文化って昔あったね、そういえば。あんまり関係ないけど急に思い出した。)

というわけで、私自身は金継ぎで表現者になる気は無いし、自分の事を金継ぎ師とか金継ぎ作家と名乗った事は全くない(&今後も名乗る予定はない)のだが、かと言って、ヤブ医者だと思われるのは嫌だし、民間療法じみた事に似非科学で色を付けた医者気取りにもなりたくないので、地味でもちゃんとした治療が出来る陶磁器の医者ではいたいよなぁと常々思ってはいる。
とはいえ、実際は分からない事も多いし、毎回、本当にこれで良かったのかと思いながら器を返却しているのが実情で、個人的な理想を盾にお客様の大切な器に私が手を入れちゃってすみませんと心の中では思ってます、はい。
こんなスタンスでやっているので、最近、結構暇なんです。世間のブームとは隔絶された陶磁器修理屋でございますが、ご縁を感じる時がございましたらどうぞ気軽にお声掛け下さい。よろしくお願いいたします。

〔 1838文字 〕 編集

錆漆のキモは水だったという話

No. 101 :
#金継ぎ #ガラス用漆 #どうでもいい思い付き

古いブログを削除してしまったため、いつから使っていたか正確には言えないのだが、店を始めたかなり初期の頃にどこかのサイトでシランカップリング剤を漆に入れるとガラスに良く密着するようになるという話を見付け、サイトの主にメールを出したところ、ガラス用漆というのを売っている店があると教えて頂いた。内容物が全く記載されていないため、サイトで記述したようなシランカップリング剤を入れた漆か確証はないとの事だったが、東京の陶芸教室で仕事をしていた頃に「液体セラミック」というシランモノマー液を目止め剤として使っており、今は説明が省かれているが、昔は容器のラベルにコンクリートなどに浸透してポリマー化しシリカと結びついて防水効果を発揮する。アメリカの衛生法取得した安全性の高い薬剤といった内容の説明書きがされていて、シランがどんな物なのかは何となく分かっていたし、全く異なる方法でガラスと漆を結び付けるとも考えにくく、当たらずとも遠からずな漆なのだろうと試しに購入。陶磁器も鉱物粉をガラスで焼き固めている物質なのだから、通常の漆よりは間違くなく結合力は高かろうということで金継ぎに使う事にした。
実際、錆漆に使う砥の粉の成分はほぼ100%シリカ(二酸化ケイ素)なのでガラス用漆で作った錆漆は非常に硬く丈夫であり、スライドガラスに付けて乾かすと水に浸けてもちょっとやそっとでは取れないから、まぁ間違いなくシランカップリングが作用していると思われる。(その後、いつからか陶磁器にも使えるとか、金継ぎに使えるという説明書きが付くようになっていた)

そんなわけで、その時に見付けたガラス用漆を20年近くは使っていたわけだが、シランカップリング剤や漆の高騰でガラス用漆もやたら値段が高くなってしまい購入するのにも勇気が必要になってきたため、他の漆屋のサイトをいくつか見て、値段が3割くらい安いガラス用漆を購入してみた。今まで使っていたものよりも少し粘り気が強いかなという感じはしたが、多少の差こそあれ何処で買っても大差はないだろうと甘く見ていたのが仇になる。
これまでと同じ砥の粉、配合で錆を作るも、なかなか混じらない上に、作った錆が全く固まらない。漆だけならば問題なく固まるが、錆にすると何故か固まらない。配合の問題かと思って漆と水と砥の粉の割合を変えてみても、表面は僅かに乾くことはあれど押すとプニプニして中まで固まる気配なし。

同じガラス用漆だと思っていたが、よもや全く違うものなのかもしれないと思いながら、もしかしたらと水をpH試験紙で測定したところ青色に変色。pH8のアルカリ性だった。水道水はずっと中性(pH7)と疑わずにいたのだが、調べたら意外と塩素の量をまめに調整しているらしく、水道水というのはpH5.8以上8.6以下と幅があると知る。
今年は暑いから雑菌繁殖抑制のために塩素多目で調整されているのかもしれない。だから、うちの水道水はpH8~8.6になっているのか。

すぐさまドラッグストアで精製水を購入し、それで錆を作ってみたところ以前のガラス用漆よりも時間は掛かるものの同じように固まったことで、原因が水のpHだと確信。
pHの問題ということならば、アルカリ性の水道水もクエン酸で調整してpH7にすれば固まるのではないか?と試してみたところ、やはり時間は掛かるが中まで固まった。ただし、爪を立てると硬くはなっているし、爪の跡が付くほどではないのだが職人の勘レベルで硬さに違いがあるような感じがする。同じpH値ではあっても、精製水のように不純物がほぼほぼゼロのpH7と、塩素やクエン酸が入ったpH7では、硬化に差が出るということなのかもしれない。

錆漆は水を入れた本堅地は硬度が低く、無水の堅地こそが最も硬度が高いというのは昔から言われている事なのだが、私が昔、鉛筆硬度法で調べた限り大きな差は無かったため加水の有無は関係しないのではないかと考えてきた。
で、思い出したのだが、硬さを調べていた頃は確か当時最も不純物を除去できるとされていたフィルタの国産浄水器を使って濾過した水を使っていた。
フィルターの値上がりが半端ないので何年か前から飲料用は外国の浄水ポットを使うようになり、更にフィルタはサードパーティーの中国製にして、金継ぎ用はそれも使わず水道水をそのまま使うようになっていた。
それでも以前に使っていたガラス用漆は頑張って固まってくれていたわけだが、以前のものよりも安めのガラス用漆(それでも通常の素黒目漆よりは高いのだが)は顕著に水の違いに反応してしまったという事なのか、と目から鱗である。

錆漆の硬度、言い換えれば漆の硬化なわけだが、それは水の質に大きく影響を受ける。
pHの影響が一番大きいのは言うまでもないが、たとえ同じpHであっても、精製水のように限りなく純粋なH2Oに近いものほど錆漆は硬く、不純物が増えるほど硬度は落ちる。そういう事なのだ。
私は陶芸視点で錆を見るため、錆はあくまでも可塑性のある粘土であり、粘土の粘りを生むには水が必須であり加水は当然であった。だが、塗料を塗り重ねるという漆芸の視点では、水を抜いて鉱物と混ぜるという発想が生まれるのだろう。塗料は塗るための接着性と乾いた後の硬さは必要だが可塑性はむしろ邪魔になるし、水という不安定要素は排除する方が賢明だということで、加水しない方が硬いという言い方が生まれたのではないかとも考えられる。

当然と言えば当然なのだが、私にとっては完全な盲点であった。

なお、最終的に、安い方のガラス用漆を配合から調整し直して仕事に使うのは流石に時間も掛かるし面倒ということで、良い勉強になりましたと言って冷蔵庫で眠りについて頂く事にして、以前に使っていたガラス用漆を買い直す事にした。痛い出費ではあるが致し方ない。
それと、今後、錆漆を作る時には精製水を使うと決めた。精製水はドラッグストアで安価に購入出来るのは、せめてもの救いである。

〔 2501文字 〕 編集

#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ

何年か前に光コラボのプロバイダーが酷かったので乗り換えた話をした。
前回は訳も分からず契約して失敗したので、今回はしっかりと内容を吟味し、切り替えたのは「enひかり」というプロバイダ。enひかりは安いし速度低下も無いので極めて良心的なプロバイダーで全く不満が無い事に加え、毎年夏にお中元が届くという律義さでもう頭が上がらない。

去年は素麺だったが、今年は素麺にタコ焼きの粉のセットであった。
粉もん文化圏の人間ではないので、家にタコ焼きプレートは無いし、そもそもたこ焼きを食うのは2年に1回あるかないか。これを機会にタコ焼きプレートを買うのもなぁと思って袋の裏を見たら、同じ粉でお好み焼きも作れるとレシピが書かれていた。粉を溶いた汁って同じものだったのか。知らなかった。
お好み焼きは、最近、カット野菜と卵を混ぜてレンジで加熱してから、かつお節とソースとマヨネーズを掛けるとお好み焼きモドキが作れると分かり、昼飯に何度か作っていたので、これに粉汁を入れたら多分出来るのだろうという予測は出来る。
というわけで、カット野菜を使ってレシピ通りの分量の粉汁を混ぜてレンジで加熱してみたところ、それっぽいお好み焼きになった。

粉は4人分あり、まだ何回かお好み焼きを作る事が出来るので、毎日、昼はお好み焼きを食べる事にしたのだが、計量が面倒なのでカット野菜も水もレシピを見ずに適当に混ぜたら、お好み焼きというよりもデカいタコ焼きを食っているような感じになった。それで気付いたのだが

「お好み焼きは粉汁を繋ぎとして具材を固めた料理で、タコ焼きは粉汁に具材を入れて固めた料理だ」

お好み焼きは焼き物だが、タコ焼きは膜で覆われた煮物。つまり具材は似ていても、料理のアプローチが全く違う。タコ焼きの中トロというのは、汁気の多い煮物だからなのか。
お好み焼きは鉄板、タコ焼きは特殊形状という道具の違いも、こういう理由からなのかと妙に納得した。

すると、頭の中で急に結びついた事がある。錆漆の扱いだ。

金継ぎのやり方のハウツーを見ていると、錆漆には非常に柔らかいものを作って重ねる方法と、硬めのものを作って厚めに盛る方法の2つがあって、同じ錆漆でもかなり混ぜる比率に幅がある。
個人的に金継ぎで使う錆漆は硬めの方が良いと思っているので、何故、柔らかいものを使うのか不思議だったのだが、これって料理の違いと同様でアプローチの違いなのではないだろうかと。

では、どういうアプローチなのかと考えた結果、恐らく胎の違いによるものだろうと推測出来た。
私は金継ぎから漆を扱うようになったので、陶磁器ファーストで漆の扱い方を決めてきたため錆は粘土の延長線上にある。だから「鉱物粉を漆で繋ぐ」という考え方で砥の粉と水と漆以外は使わず、粘りが出るまでしっかりと錬ることで硬めの錆にするのだが、漆器を作ってきた人は、木製品ファーストで漆の扱い方を決めてきたため「厚塗りが出来る硬めの塗料」というアプローチで練り数が少ない柔らかい錆を使っている。練り数が少ないため可塑性として米糊を入れる。
このように、同じ錆でも、胎に対するアプローチの違いで硬さに違いが出るのだと思われる。

漆単体よりも早く凹みを埋めるという目的は同じでも、こうやって違いが生まれるのかと妙に納得した。

〔 1432文字 〕 編集

金色にしてどうするの?という話

No. 99 :
#徒然なる日記 #金継ぎ #どうでもいい思い付き

エアコンが無い部屋は日中30℃を超える。
人間、30℃を超える部屋でずっと仕事をしているとどうなるかというと、先の事を考えられなくなる代りに昔の事をやたらと思い出すようになる。
次に何をするか、次に何が起こるのかという事を考える不確定要素の選択は、暑さで神経系統にダメージがあると難しいという事なのだろう。
前にどこかで書いたかもしれないが、私は過去(特に自分の過去)に興味がない人間なので、昔の事を思い出すというのは懐かしさは微塵もなく、ただただ苦痛だったりする。まぁ、それはさておき、そんなわけで目の前の錆を削る動作だけを何とかして続けていると、昔の記憶がポツポツと池に沸く泡のように関連も無く出ては消えるを繰り返すのだが、そこで急に思い出したのは、私が金継ぎ仕事を始めた20年くらい前は「器を修理したいが、直したところを金とか銀にして何が良いのか?」という問い合わせがやたらと多かったという事(依頼主さんが直した器を家で見せたら、金色は余計じゃないかと家族に言われて凹んだというのも本当によく聞く話だった)。それと、外国の人は黒楽や瀬戸黒の茶碗のように真っ黒な器は、日本人で言うところの「ケ(ハレとケのケ)」に相当するので全然好きじゃない。更にそこに修理が入っていたら、それが金色でもお話にならない器なのだという話。
そうだった。あの頃の金継ぎの認知なんて、その程度のものだった。金継ぎに概念とか哲学なんていうものは影も形も無かった。骨董趣味な人が「見立て」として多少楽しんでいる程度のことだった。

それで気付いたのだが、今の金継ぎを褒める文脈って、要するに日本人や外国人に「売り込むための物語」という必要性から出てきたものなんだろう、十中八九。
ここ何年かで急に金継ぎに意味を持たせたり、歴史改竄まがいな話で祭り上げるようになっていて、これは一体、どうしたことなのかと疑問だったのだが、やっぱり売り込むために創作した文脈なんだというのが、なにかはっきりした。ような感じがする。

〔 886文字 〕 編集

金継ぎの意味合いという話

No. 98 :
#徒然なる日記 #金継ぎ #どうでもいい思い付き

金継ぎが「壊れたことを隠さず美しく装飾して目立たせる」という話は昔からの思想みたいに言われているが、私が仕事を始めた頃に金継ぎのそんな解釈は聞いたことが無かったし、昔の書物にそういう話も出てこないので(そもそも金継ぎは修理跡を隠すために蒔絵をしているわけだし)、恐らくこの思想もどきは、明治維新に茶道が陥落して茶道具が二束三文で市中に出回った後、割れ物を少しでも高値で売るための方便としてあった話を掘り返してきたか、SDGsで一発当てようと考えた人が作った江戸しぐさみたいなものだろうと思っている。金継ぎ自体は現象や結果であって、そこに良い悪いや上下は無いと思うが、変な思想とセットになって善行として勘違いが広まっていくのは困ったもんだなとは思う。

まぁ、困ったことはさておき、では、現代において金継ぎの思想って一体何なのかと考えていて気付いたのは、金継ぎって意外とロックと同じ立ち位置だったりするのではないかという事。金継ぎがロックなわけではなく、あくまでも立ち位置ね。
ロックは音楽ではなく人生だとか言ったりするけれど、要するにロックな生き方を選ぶ、その結果、ロックという歌が形として現れてくるという事なのだと思う。
金継ぎもそれに似ているような気がして、では、金継ぎはどんな生き方に対して現れてくるものなのかというと、突き詰めれば「手入れをしていく」という生き方なのだと思う。手元にある物に対して手を入れてくという生き方を選んだ。それを表すものとして金継ぎした物というのが出てくるのではないかと思う。

圧倒的に物が足りない時代であれば、手入れをするのは仕方が無いというか、それ以外の選択が無いので生き方とは違うものだと思うわけだが、物が多過ぎる現代においての手入れは、選択的生き方の一つということになるのだろう。消費を繰り返すという生き方に対して、手入れを繰り返すという生き方、みたいなのが金継ぎの意味合いとしては一番大きいのかもなぁと考えている。

〔 868文字 〕 編集

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