猫田に小判 -新館 -

Last Modified: 2026/02 RSS Feed

No.116, No.115, No.114, No.113, No.112, No.111, No.1107件]

#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

侘び寂びはコミュニテFMの出演のために調べていたわけではないのだが、たまたま話の流れで考えていた事を喋ることになり結果的にラジオが先出しになった。ミヤラジ では急に話すことになったので纏まりに欠けていた感じがするから、改めてブログに整理して書いておこうと思う。

まず侘び茶で出てくる『侘び寂び』とは何なのか。パーソナリティ鵜飼さんも、侘び寂びはふわっとしたものとしか考えてなかったので、侘びと寂びの違いについて考えていなかったとの事。恐らく江戸時代以降の日本人は同じ認識だろうし、私自身も調べる前は大した違いを認識していなかったので、明確に言葉にすることは難しいと思う。
しかし、『茶話指月集』『長闇堂記』『山上宗二記』『松屋会記』などの利休に関する江戸時代の書物(実際には弟子や孫が語るという感じなのだが、利休は不立文字(本当の事は文字には出来ないという事。人が確認した時点で粒子の挙動は変わってしまうという量子力学に通じる)を徹底していたので又聞きが主体になってしまうのは仕方がない)を読んでみると、そこには明確な違いを読み取ることが出来る。

「侘び寂び」と一括りの単語として用いることが多いので、侘びが先、寂びが後という感じがするが、実際のところは「寂び」が先行する。

「寂び」とは、自然の中で偶然に生じた実景から得られるエモーショナルな感覚の事を言う。
「寂れる」という言葉からも分かるように元来は物事が自分の予想する方へ向かわないネガティブな事象に対する用語だが、それを「無情で趣深い」とポジティブに捉えたのが、藤原俊成、藤原定家など平安時代の貴族である。そのルーツとして紹介されるのが
「見渡せば 花も紅葉も無かりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(周りに綺麗だなぁと思う物が何も無い 浜に粗末な小屋があるだけの秋の夕暮れだよ)」
という和歌。今の日本人で言えば、演歌を聞いた時の感覚に近いのではないかと思う。
ちなみに「寂び」と名詞で使用するのは江戸中期の松尾芭蕉などからで、それまでは寂びた情景という使い方は有るが寂びという独立した感性ではなかったらしい。

「侘び」というのは、寂びた情景を自分の周りに積極的に構築しようとする能動的事象を伴った感性を言う。
侘びもまた平安時代には生まれていて、元来は、自分の思い通りにならない事を悲しむネガティブな用語だ。万葉集には男女が会えない事の悲しみとして侘びは多く登場する。柿本人麻呂の和歌
「草枕 旅にしあれば侘びしくも 恋しきものか妹を思わねば(旅の途中で悲しくなってしまったよ、会えない恋人の事を思い出したものだから)」
は、侘びをよく表すとして紹介される。万葉集は益荒男振り手弱女振りの世界だから愛しい者が居ない寂しさのストレートな物言いで分かりやすい。
そして、この会えない時間、つまり大切なものが物理的に存在していないという事をポジティブに捉えてみようとしたのが茶の湯における「侘び」だ。何かが足りないという点において侘びは寂びと共通するが、侘びの場合は、寂びの情景を自らの周りに構築し続けるという積極性が加わり、自らもそうした寂びた自然と共通であるという認識を必要とする。それを実践したのが「侘び茶」であり、そのための下地となる思想が「禅の教え」という哲学だ。なので侘び茶には「茶禅一味(茶を飲むことと禅の修行は同じである)」という言葉を用いる。

さて、侘び茶の成立に代表される人物として登場するのが「村田珠光(むらたじゅこう)」「武野紹鴎(たけのじょうおう)」「千利休(せんのりきゅう)」の3人である。
よく見る解説は、銀閣寺で有名な8代将軍の足利義政によって見出され、「和漢のさかいを紛らかす(和漢折衷)」という侘び茶の元を作ったのが村田珠光。その侘び茶に用いる道具を工夫し「侘び数奇」として進化させたのが武野紹鴎。それらを整理して完成させたのが千利休。という順番。

とても分かりやすい並びになっていると思うが、そうした解説を見比べていて、ある時「あぁ、そういうことか」と気付いたのが、これって現代のスマホの成立過程とよく似ているという事。現代日本人の多くにはしっくりとくる例えではないかと思っている。
室町時代中期における茶の湯は、唐(中国)の手順や道具を用いており、それを理解することは難解であり、唐物(道具)は高価で貴重だった。だから茶の湯は貴族や将軍といった特権階級だけが扱える代物だった。

この状況を例えば、こう考えてみる。

外国からコンピュータというものが日本にやってきた。当時のコンピュータは非常に大型で取り回しが難しく高額だった。何より操作はすべて外国語を正確に記述できないといけない。よほど頭の良い人でなければ使えない。そこで、もう少し日本人が使いやすく出来ないものかと足利義政は考えた。
一方、村田珠光という人間は予てから外国製コンピュータに国産OSを乗せて動かすことが出来ないかと密かに考えていた。
その2つの考えは、偶然にも能阿弥という足利義政の配下の人間によって取り持たれることとなる。
謁見することとなった村田珠光は、足利義政にこう説明する「このコンピュータに禅言語を使った『侘び』というカーネル(OSの核となるプログラム)を用いた国産OSを入れる事が出来ます。表記は日本語化させる(和漢のさかいを紛らかす)から今までよりもずっと分かりやすく、多くの人が使う事が出来ます。私が国産OSを開発してみせましょう。」と。
こうして日本初の国産『侘びOS』を乗せたパーソナルコンピュータ(四畳半の茶室)が誕生する。

『侘びOS』は日本人に最適化したOSで、非常に分かりやすく動作した。しかし、OSは日本語化しているが、使用するアプリケーション(茶道具)の多くが日本語に対応していなかった。OSはよく出来ているが、まだまだアプリケーション開発のノウハウやプログラマーが不足していた。
アプリケーションも自分たちで作れればもっと使いやすいだろうと考える『侘びOS』愛用者に武野紹鴎という人がいた。そこで武野紹鴎は、各地を周りアプリケーションになりそうなものを買い集め、組み合わせていった。
やがて国産OS『侘びOS』で動作するアプリケーションが徐々に生まれていくことになる。

武野紹鴎のこうした動きと時を同じくして、村田珠光の『侘びOS』を愛用し、茶の湯に参入を試みていた若いエンジニアであり起業家に千利休が居た。
彼は思っていた。茶の湯は面白い。だが、この面白さを理解するには、まだまだパソコンは大きくて専門的過ぎる。もっと家電のような感覚で使えるよう改良が必要なはずだ。そのためには『侘びOS』の小型化が必要に違いない。村田珠光のカーネルを利用して、もっと小型に特化したOSを作れないだろうか。
そして、千利休は侘びOSを小型化した『侘び茶OS』を作り上げ、侘び茶OSを動かすためのデバイス(三畳、二畳、一畳の茶室)を構築し、更に侘び茶OSに合わせた国産アプリケーションの小型化や『楽(当時は楽という名称はなく今焼と言った)』『竹花入』などの新種開発にも着手し、アプリケーションの手順書も考えた。

この開発によって、茶の湯人口は一気に増大し、優秀なプログラマーも生まれていく事となる。

しかし、一つだけ不幸だったことがある。それは千利休が優秀過ぎたという事。
そのため、利休以後に生まれたプログラマーは、侘び茶OSを超えるOSを開発することが出来ず、アプリケーション開発にのみ専念した。
しかも、アプリケーションの乱立によってバッティングが発生したり、中にはOSに不正な書き込みをしてデバイスを起動不可能にするものも出てきてしまった。
それが江戸時代になって拡大する流派乱立、茶の湯の遊芸化だ。当時の出版本には、侘び茶OSの仕様を守ってアプリケーションは開発すべきという忠告も見られるが、そうそう上手くいかないのは人の世の常である。侘び茶OSを開発した千利休の流れを持つ流派もまた、アプリケーションを書き換える中で当初の目的を薄めていく部分も少なくない。
ちなみに、金継ぎ(漆直し金蒔絵)という直しは、こうした体流の中の末席で生まれたものではないかと個人的には考えている。

今後、新たな国産OSは生まれるのか、それともアプリケーションが少しずつOSを書き換えていくことになるのか。
なかなかに興味深い事ではないかと思っている。

〔 3520文字 〕 編集

#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ

noteの金継ぎ解説を一区切り付けたので、その後の暇つぶしで侘び寂びについて掘っている。
そこで気付いたのは、侘び茶が当時の外国被れに対するカウンターカルチャーだったのは間違いないとして、その起こりとなった精神的な部分は平安時代の国風文化なんだろうなぁという事。
無論、国風文化は貴族の文化だから、市井の民の暮らしぶりとは真逆な優雅さはあるわけだが、古文書に残る平安の言葉の概念と見比べると、思想的にはとてもよく似ている。国風文化から生まれた自然観に幾ばくかの切なさを含め、それを美と判断するセンスを室町後期では「寂びる」と表現したらしいが、敢えて「佗び(侘び)茶」という用語を選んだ辺りに、これはリスペクトであって真似ではないからな、そこんとこヨロシクという茶人の気骨を感じたりはする。だから寂び茶ではないのだろう。

ちなみに現在、寂びは時間的な物憂げにある美、侘びは物質的な物憂げにある美とAIは解説したりするのだが、言語の変遷から定義すると、自然の中に発生する物憂げを見付ける審美眼が『寂び』、自らの生活スタイル(=人生)で物憂げを肯定的に実践するのが『侘び』なんだそうな。自分の立ち位置とか心のベクトルが違うというのは意外と認知されていない。

それと、あぁやっぱりそうなのか面白いなぁと思ったのは、侘び茶の考え方は時代によって表現方法の変遷があるということ。根底は同じなのだろうが、茶の真髄に侘び寂びという言葉を象徴的に使用するようになったのは利休死後1世紀の江戸初期(このとき制作された記念創作本が、茶道の話でよく出てくる『南方録』)と、それからずっと後の昭和における国文学研究との関連で登場。第二次世界大戦前は寂びが重要視され、大戦後は侘びが重要視されることとなり、そして、侘び寂びとして周知されたのは戦後って話。それ以外の時代は和敬静寂や簡素、質素などの言葉が多く使われている。和敬静寂は利休が自分から言ったという話になっているらしいから、そのまま和敬静寂を使えば良いような気もするけど、もうちょっとミステリアスでキャッチーな名詞が欲しかったのかね。

それで、ずっと疑問だった、金継ぎは本当に侘び寂び発祥なのか?という点も何となく解決した。
そもそも、利休は秀吉と黄金茶室で喧嘩をしたり、金色を茶室で使う事自体を快く思っていなかったという伝書は多く、金襴の表具は愚か者の目を驚かすだけの痴人脅しとか言っているし、江戸時代に入るまで直しの記述や茶道具は有っても金が蒔かれた様子は無く、直しに「漆を以て之を補う 金粉を粘す(粘りつかせる)」という表現が登場するのは喜田川守貞の著『守貞謾稿 』巻六の焼継ぎの説明中で、守貞漫稿の製作は江戸後期。つまり江戸中期に小規模で行われていた可能性はあるが、記述として残される程度に認知されたのは江戸後期になってからと思われる(ただし金継ぎや金繕いという名称はまだ登場していない)が、どう考えても侘び茶の発生と同時期ほど古くはない。
そこで先の話に出てくる「侘び寂びが茶の理念になるのは昭和まで確定しなかった」のくだり。それで合点が行った。やはり金継ぎは侘び茶と同時に発祥したのではなく、江戸になってから侘び茶が取り込んだのだろうな、と。

ところで、発祥から通底されてきた質素清貧を旨とする佗び茶の世界観に、なぜ贅沢の極みとも言える金や銀を取り入れる事が出来たのか?それには、茶道具に金色が用いられることとなった歴史の転換点が関係するのかもしれない。
ここからは私の想像だが、恐らく小堀遠州の武家茶道『綺麗さび』の思想や、金森宗和を元とする公家茶が、それに大きく関わる。
利休・織部による室町時代の草庵式の佗び茶から、江戸文化(あえて言えば、貴族文化、武家文化、中国文化、南蛮文化など多様な文化の統合体)も取り込むことで考案された書院式の武家茶道が遠州流の綺麗さびだ。織部の侘び茶は堅苦しすぎると言い、佗び茶には無かった「華やかさ」という新たな軸を作り、それを肯定したのが綺麗さび(なお、当時は茶道の象徴的用語ではなく道具に対する形容として用いられており、遠州の象徴として固定されるのは昭和に入ってから)。一方、宗和流の始祖である金森宗和は、京焼の野々村仁清を重用した茶人であり、小堀遠州とも親交を持つ。公家との交友は深く、茶碗にも金彩の模様が用いられるようになった。そして、遠州は徳川将軍家の茶道指南役である。
こうしたネットワークの中から、金粉を粘した直しもまた茶道における寂びに含まれるというお墨付きが広まることとなったのではないかと思う。これを起点として江戸や堺の侘数寄者が直しに金継ぎを導入するようになり、後に千家も金継ぎを認めることとなる。そんな流れがあったのではないだろうか。

金継ぎは侘び寂びではなく、江戸文化を取り込んだ綺麗さびのネットワークを発祥とする、と考えるといろいろと納得もできるような感じがする。

〔 2092文字 〕 編集

文化的充実とは何か、という話

No. 114 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ

note『案外 書かれない金継ぎの話』のネタが切れたので一段落ということにした話を前回書いて、最後のところでChatGPTで見やすい図解を作って差し替えるのはやりたいと言っていたのだが、予想より早く差し替えが完了した。無料だと画像生成は1日3回しかチャレンジが認められていないので、こりゃぁ先は長いだろうと思っていたが、プロンプトの指定をかなり細かくやっておくと大体1~2日、つまり6回あれば概ねこちらの意図を汲み取った事をやってくれるというのが分かり、殆どは6回掛からずに出来たので2週間くらいで元絵は出来上がって、そこからフォトピー で少しフォトレタッチなどでChatGPTの生成画像の不足分を補ったりして、これなら少なくとも手書き絵を貼っておくよりは良かろうというレベルになったのでOKにした。
で、図解の差し替えだけで十分だろうと思っていたのだが、図解に合わせて文章も少し修正が必要だったり、3、4年前の不勉強ゆえに間違えている部分もあったりして、結局、本で言うところの重版みたいな感じで割とあちこち推敲もやった。

改めて自分が書いたnoteを読み直していて思い出したのが、自分が何故、修理することに拘っているのかという原点だった。

店を始めたきっかけは、当時、実用陶磁器の直しをやっている人間が殆ど居なかったからというのは以前に書いた通りなのだが、栃木に帰って陶器の修理屋をやろうと決めた根っこの部分って、そういえば、文化の充実性みたいなものに気付いたからだった。
資本主義において社会の充実は、物質の『量』と『進歩』が最優先される。要するに、物がたくさん有り、そのたくさん有るものが常にブラッシュアップされていく状態を充実と認識する。しかし、本当にそうなのか?充実とは一方向に進むことなのか?その結果、大量生産と大量消費が加速し物を直せなくなっている事にも気付かないのは、むしろ退化ではないのか、と。本来は、作ったら使い続けることが大切で、使い続けるにはメンテナンスが不可欠なわけで、要するに『作る事と直す事』の両立があって物作りはバランスが取れた自然な状態であると言えるのではないだろうか。このバランスが取れていることが文化的充実なのではないかと思ったわけである。
そのためには、修理保証もなく生産され続けている陶磁器の直しの確立が不可欠だ。単に形が整っただけの一過性の作業ではなく、メンテナンスし続けられるだけの理論的で体系的な直しを考えなければいけない。そんな気持ちがあった。

今の金継ぎブームを見ていると、どうも自分とは馴染まないと常々感じていたのだが、その根本原因は、ブームの金継ぎが『一点物』や投機的『アート』という生産方向だけに肥大している(というか、それしか考えていない)からなのだろう。見た目は直しだが、その実は『映え』でしかない。
もっと言ってしまえば、自分なら壊れた器をもっとブラッシュアップできるんだぜとか、何なら器よりも目立ちたいという既存の器に対する無意識な見下しというか、それまで使われてきた器が持つ時間や関係を目新しさだけで蔑ろにしている感じというか、要するに壊れた器をキャンバスや遊具にしか考えていない感じが、どうにもやりきれない。器の色は金のための下地ではなく、世に出せると器の創り手が判断した色の完成形であり、買い手が気に入って選び、使い続けてきたという歴史だ。その部分が完全に抜け落ちて、金色の新しいものを作ることにしか目が向いていない。
文化のバランスとして考えた場合にも、明らかにブームの金継ぎはバランスが悪い。金継ぎという名の消費が進んだだけな気がする。

だが、もう、この流れは私一人が何かを言ったところでどうしようもないと思う。それくらい歪んだ構造の金継ぎっぽいものはメジャーになりすぎた。
だから、私はnoteを書く時、無意識に、ことさら修理に拘ったのだろう。そして、この考え方は今のブームの金継ぎをやっている人間には絶対に届かないとも思う。
それでもかまわぬ。noteの金継ぎ解説は、今のブームのために書いているのではない。ブームが去った後、100年後の修理屋のために書き残しておくことにする。映えは100年以内に詰むと思う。その時、どこかの修理屋がnoteの文章を見つけてくれれば、それが一番良いような気がしている。

〔 1837文字 〕 編集

noteを一段落させたという話

No. 113 :
#徒然なる日記 #陶磁器修理 #金継ぎ

話をしたり書いたりする時、私は出来るだけ同じ切り口やネタは使わないようにしている。とはいえ、私の脳のキャパを考えれば無尽蔵にいろいろな視点や情報を持てるわけもないので、同じ話を使い回さなければいけないことは致し方がない。

金継ぎの修理店をやって20年(金継ぎ自体はもっと長いけど)、その間に調べたり解決してきた知識も出し尽くし、noteに書く内容がダブってきている感じがするなぁと思っていたのと、金継ぎを始めた頃からず~っと気になっていた漆の酵素や、乾かす時の湿度の働きについての解説が割と見つけにくいという事の一応の取っ掛かりみたいなものは書けただろいうという気持ちもあり、自分の中でのみ、この辺でnoteでの解説を一段落つけることにした。とりあえず金継ぎについて後世への楔は打てたような気はしている。
店を始めてから直した器の総数は3500点を超えることもあり、いろいろな種類のものを直し、個々の直しについての細かいノウハウみたいなものはまだ書けると思うが、あまり細かいところを書くのはマニアック過ぎて話が難しくなるし、何より器とはいえ個人情報に触れる部分も出てしまうかもしれないので、それは私の文章を書くポリシーに反する。

もし何年か仕事を続けることが出来て、それまでに疑問が出たり調べたりすることがあったら、忘れた頃に何か書くかもしれないので、最終回めいたことは何一つ書いていない。まぁ、そんな区切りの付け方があってもいいかなと思っている。

それと、前回の記事の時、ChatGPTに自分が手書きした下書きを読み込ませて、いろいろ指示を出してお願いすると、かなり綺麗に清書して図解として使えるレベルのものを作ってくれることが分かったので、今まで書いた解説で図があった方が理解がしやすそうだと思ったところには、少しずつAIで清書した図解を付けていく作業はやろうと思っている。ただChatGPTは無料だと24時間で3枚しかお願い出来ず、再指定でやり直しさせても1カウント取るので、意外に進まない。まぁ、あまり読む人はいないから地道にやっても何か言われることはないと思うんだけども。

〔 932文字 〕 編集

#徒然なる日記 #金継ぎ #陶芸

金継ぎがブームになってから、やたらと持ち上げられるようになった不完全美。
利休が説いた茶の湯の精神『詫び』が不完全美を包括していることに間違いはないのだが、果たして金継ぎが不完全美を表しているかというと、これはかなり疑問視する必要があると個人的には考えている。

少なくとも伝世品を見る限りにおいて、物を直すという習慣はあったにせよ、茶道具を漆で直し金や銀の加色までするという概念が当初から在ったのかは甚だ疑問である。
利休が所持していたと言われる伝世品の茶道具にはヒビのあるものが幾つかある。
一重口水指 柴庵
竹一重切花入 園城寺
青磁鯱耳花入 砧花入
古芦屋 春日野釜
上記のうち、砧花入と春日野釜については鋦瓷(鎹(かすがい)による直し)を行っているが、加色などは行ってはいない。
また現存はしていないが、利休が初期の茶会で使ったと言われる「善好香炉」は、茶会記『松屋会記』に「ヒヽキ大小アリ」つまり大小の亀裂が生じていたと記録されている。

利休の弟子とされる古田織部もまたヒビの入った伝世品があり、中でも有名なものが
古伊賀水指 破袋
である。今後、これほどのものは出てこないだろうと書き置きしたという。

また、古田織部に師事したとされる本阿弥光悦の楽茶碗には、特に制作途中で生じたヒビ(裂)のあるものが多く、陶芸家の加藤唐九郎はヒビの無い茶碗は光悦ではないとまで言っており、光悦が破袋を一つの完成形として見ていたであろうことは想像に難くない。
赤楽茶碗 雪峯
楽焼黒茶碗 雨雲
黒楽茶碗 時雨
赤楽茶碗 乙御前
赤楽茶碗 太郎坊
雪峯は今や金継ぎの代名詞にもなっているが、本来は腰落ちによって生じた縦裂が元からあったヒビで、後に破損した際、縦裂にも金が塗られることになったわけでオリジナルの雪峯は最初から金が加色されてはいないだろう。(そもそも銘が雪峯なわけだし)

これらの伝世品を見て分かるのは、ヒビそのものが茶器の「詫び」であり、直す事が必ずしも美徳となるわけではないという視点があるのではないかという事だ。
花入の円城寺には、水漏れする掛花入を床の間に飾るのは如何なものかと言われた利休が「水漏れすることがこの花入の良さだ(個性だ)」と返したというエピソードがあり、直さない事で詫びの境地を示すことも出来るという利休の考えをよく表しているのではないかと個人的には思ったりする。

つまり、利休から始まる『詫び』が内包する不完全美とは茶器が持つヒビそのものの、もっと言えば茶席に現れるヒビそのものであり、ヒビを不自然に加色することはむしろ詫びから離れることになるのではないだろうか。
今の金継ぎブームは、殊更に組み立てる事や金などの加色を入れる事に意味があるとして、詫びだ不完全美だと声高に主張する傾向が強い。ブームの金継ぎは、どうにもビジネス的な物語臭が強く、本来の詫びをむしろ愚弄していると言ってもいいくらいではないかとさえ思ってしまう。
金色が美しいのではなく、それ以前から美しさというのは既に存在している。それが詫びの持つ不完全美の本来の意味なのではないだろうか。

そして、これは完全に個人的見解なのだが、仮に金継ぎを不完全美として組み入れようとするなら、それは名器が持つヒビ(裂)の見立てという約束事の上で成立することが出来るものなのかもしれない。

〔 1464文字 〕 編集

#徒然なる日記 #金継ぎ

セラピー方面でおそらく火が付いて、すっかり定着してしまった感のある「金継ぎは壊れた事を受け入れるために、わざと修理箇所を目立たせている」という文言がある。
金継ぎした物を見てそこから何かを発想するという思考実験は美術鑑賞の基本だから、その考え方自体を否定する気は全く無いのだが、セラピー金継ぎで問題となるのは、自分が物を見て感じた一つの可能性という事を完全に無視して(というか意図的に隠して)、金継ぎが歴史的にそういう思想を元に行われ続けてきたと提示したことにある。
セラピーは基本的に心が弱っている人間、言い換えれば思考を巡らせるという能力が低下して藁をも掴みたい状態の人間を対象として行われる。そこに漬け込んで、有りもしない金継ぎの歴史で洗脳させるから、器を破壊することに躊躇が無くなったり、金色をダシにして法外な値段をふっかけられていることに気付かなくなったりする。更に酷いと金継ぎの技法を教える側の人間までが何の考えもなくセラピーの文言をワークショップの宣伝に使っていたりする。

そもそも壊れたことを目立たせるという発想は、目立たせない修理の相対として成立するものなわけだが、漆を使って陶磁器を直すと間違いなく修理箇所は黒ずんで目立つ。漆自体が飴色な上に陶磁器に必ず含まれる鉄と反応するから、顔料を入れても色が黒ずむのは必然だ。
つまり昔から漆を使えば目立つという事が周知されており、だから基本的に完品よりも格下の道具というランク付けがされていた。そこから敢えて目立たせるという思考が生まれたりすることはない。目立たせるための直しという発想は、透明な合成接着剤で付けると跡が見えないという事を知っている人間から出てくるものだ。

では、金継ぎに金蒔絵が導入されたのは、なぜか。金はあくまでも黒ずみを隠すための「虚飾」「見栄え」としての遊び心に過ぎない。
茶を飲む時に使える耐水耐熱性の修理剤として漆が用いられ、最初は修理箇所を気にしながら使っていたものが、江戸の文化が隆盛になる辺りで天才的な発想をする人間あるいは洒落た感覚の粋な人間が金属粉で黒ずみを被覆する蒔絵の手法を導入したのだろう(ちなみに江戸時代に金継ぎという言葉はまだ生まれていなかったようなので、金継ぎというジャンルとして成立したのはもっと後世の可能性もある)。つまり金色は目立たせるためではなく上手い隠し方が本意だと言って良い。そして、虚飾であった金属色には、後に「景色」という役割(約束事)が与えられたことで、やっと道具としての居場所を確保できるようになった。たぶんそんな経緯で金継ぎは認知されたのではないかと思う。

だから、金継ぎされた物を見ていろいろと思考を巡らせるのは大いに結構だが、金継ぎを過度な救いを求める象徴としたり、救われるために平然と物を壊して金色に塗り直すような洗脳装置として使うことは、金継ぎに対する侮辱というか申し訳ないことをしているのではないかと個人的には思っている。

〔 1279文字 〕 編集

金継ぎ哲学の浅さに嫌気がさすという話

No. 110 :
#徒然なる日記 #金継ぎ #陶磁器修理

金継ぎパズルが話題らしい。最初に器がバラバラと崩れるビジュアルから始まるので、器を割ることから始めるのは金継ぎの精神に反すると批判する人もいるらしく、それに対し、ゲーム製作者(ポーランドの人)は金継ぎの哲学を理解していると製作意図のコメントを紹介したりと、相変わらず騒ぐの好きだねという感じで見ている。
製作者のコメント(日本語訳)を読んでみたが、あぁこの人も金継ぎ神話に騙されたのかと少し気の毒には感じた。

誰が金継ぎの哲学とやらを言い始めたのかは知らないが、そんなのが出てきたのはSDGsを企業やメディアが盛り上げたりコロナ禍でインドア趣味に活路を見出すビジネスが増えた辺りの何処かだと思う。店を始めた20年前にはそんな哲学の話など微塵もなかったし、金継ぎの店を始めますと陶器店を回っても1店を除いては話も上の空で聞いているのか聞いていないのか分からない状態。地方新聞や地方ラジオで取り上げられても問合せは数件で、「器にこんなことをされたら困る」と電話口で怒られたこともある。それくらい日本人ですら金継ぎは関心が薄く、どういうものかも分かっていない状態が普通だった。金継ぎ品を見て哲学性を感じる人は皆無と言ってもよく、骨董屋ですら直してあるから値下げしたと言って売るようなものが金継ぎ品だった。

2020年辺りを境に金継ぎが急に世間の注目を集めるようになったが、漆を使えば実用レベルで陶器を使い続けることが出来るという先達の発見への尊敬は極薄だったと思う。少なくともツイッターを見ていた限りにおいて、漆芸にかかわる人たちでも金継ぎには「漆芸に関心を持ってもらえる最初のツールにはなる」という見解が殆どで、根源的な直しについての話をしている人は居なかったのではないかという感じがしている。
ところが、金継ぎ哲学という尾ビレが付いた途端、あれよあれよという間に金継ぎはサスティナブルだ、SDGsだ、日本人の精神だ、伝統的思想だ、ということになった。ビートルズではないが一夜にしてスターダムに上った感がある。

金継ぎ哲学はあまりにも修理直後の派手な見てくれだけに執着していて、いかにも最近知った人が考えた感が拭えない。使い続けるうちに金が剥げてくることや、漆が劣化することついては一切触れない。金継ぎに哲学を加えて物語性を出すことでビジネスにしたアイディアには敬服するが、個人的には金継ぎ哲学とやらは金継ぎをビジネスとして成立させるために必要だったというだけで、別に日本人の精神だとは思わない。
金継ぎにあるのは哲学というよりも、良くも悪くも「日本人の貧乏根性」ではないかと思う。良く言えばワンガリマータイ的な「勿体ない」とか茶の湯的には「わび」ということになるわけだが、要するに「明日の事なんて分からんけど、出来るだけのことはやっとくかな、知らんけど。」という程度がせいぜい金継ぎの持てる精一杯じゃないかと私は思っている。それ以上の、言葉を費やした美学や哲学は金継ぎの蒔絵の金と同じで加飾に過ぎない。多少の洒落っ気や味にはなるが別に崇高な精神性ではない。というか、そこを抑えておかないと、今ですら金継ぎは十分に歴史改ざんの憂き目に逢ったり、セラピーというお題目のもとに金継ぎという名で大量消費が行われているというのに、さらに金継ぎはどんどん取り返しがつかないレベルで曲解された挙げ句に見捨てられて終わってしまうような感じがしている。
誰かが考えた話に感動するのは自由だが、それは金継ぎのコンセプトとして組み込まれていたわけではなく、ビジネスの中から生まれたファンタジーだというのを理解して感動しないといけない。
金継ぎの認識が変わっていくのも時の流れだと言って切る捨てるのは簡単だが、出来ればもっと自然に見て、感じて、修理品と地味に長く付き合っていくようなものが金継ぎてあってほしいという一縷の望みを持っている。

〔 1650文字 〕 編集

■全文検索:

■インフォメーション

猫田に小判 -新館- は、猫田に小判(使用していたCGIの開発が終了してしまったため更新を停止)の続きでやっているブログです。
気分次第の不定期更新です。3ヶ月に1回くらいで見に来て頂くと、更新している可能性が高いです。
ちなみに当ブログとほぼほぼ関連性の無い事か、ブログに纏める前のアイディア程度の浅い内容しか書きませんが、Twitterはこちら
コメント欄の無いブログCGIなので、ブログについてのご意見はTwitterのリプライやDMでお願いいたします。

編集

■日付検索:

▼現在の表示条件での投稿総数:

7件

ランダムに見る