No.115
侘び寂びと金継ぎはどう関係してきたのか?という話
No.
115
:
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2025年08月21日(木)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
noteの金継ぎ解説を一区切り付けたので、その後の暇つぶしで侘び寂びについて掘っている。
そこで気付いたのは、侘び茶が当時の外国被れに対するカウンターカルチャーだったのは間違いないとして、その起こりとなった精神的な部分は平安時代の国風文化なんだろうなぁという事。
無論、国風文化は貴族の文化だから、市井の民の暮らしぶりとは真逆な優雅さはあるわけだが、古文書に残る平安の言葉の概念と見比べると、思想的にはとてもよく似ている。国風文化から生まれた自然観に幾ばくかの切なさを含め、それを美と判断するセンスを室町後期では「寂びる」と表現したらしいが、敢えて「佗び(侘び)茶」という用語を選んだ辺りに、これはリスペクトであって真似ではないからな、そこんとこヨロシクという茶人の気骨を感じたりはする。だから寂び茶ではないのだろう。
ちなみに現在、寂びは時間的な物憂げにある美、侘びは物質的な物憂げにある美とAIは解説したりするのだが、言語の変遷から定義すると、自然の中に発生する物憂げを見付ける審美眼が『寂び』、自らの生活スタイル(=人生)で物憂げを肯定的に実践するのが『侘び』なんだそうな。自分の立ち位置とか心のベクトルが違うというのは意外と認知されていない。
それと、あぁやっぱりそうなのか面白いなぁと思ったのは、侘び茶の考え方は時代によって表現方法の変遷があるということ。根底は同じなのだろうが、茶の真髄に侘び寂びという言葉を象徴的に使用するようになったのは利休死後1世紀の江戸初期(このとき制作された記念創作本が、茶道の話でよく出てくる『南方録』)と、それからずっと後の昭和における国文学研究との関連で登場。第二次世界大戦前は寂びが重要視され、大戦後は侘びが重要視されることとなり、そして、侘び寂びとして周知されたのは戦後って話。それ以外の時代は和敬静寂や簡素、質素などの言葉が多く使われている。和敬静寂は利休が自分から言ったという話になっているらしいから、そのまま和敬静寂を使えば良いような気もするけど、もうちょっとミステリアスでキャッチーな名詞が欲しかったのかね。
それで、ずっと疑問だった、金継ぎは本当に侘び寂び発祥なのか?という点も何となく解決した。
そもそも、利休は秀吉と黄金茶室で喧嘩をしたり、金色を茶室で使う事自体を快く思っていなかったという伝書は多く、金襴の表具は愚か者の目を驚かすだけの痴人脅しとか言っているし、江戸時代に入るまで直しの記述や茶道具は有っても金が蒔かれた様子は無く、直しに「漆を以て之を補う 金粉を粘す(粘りつかせる)」という表現が登場するのは喜田川守貞の著『守貞謾稿 』巻六の焼継ぎの説明中で、守貞漫稿の製作は江戸後期。つまり江戸中期に小規模で行われていた可能性はあるが、記述として残される程度に認知されたのは江戸後期になってからと思われる(ただし金継ぎや金繕いという名称はまだ登場していない)が、どう考えても侘び茶の発生と同時期ほど古くはない。
そこで先の話に出てくる「侘び寂びが茶の理念になるのは昭和まで確定しなかった」のくだり。それで合点が行った。やはり金継ぎは侘び茶と同時に発祥したのではなく、江戸になってから侘び茶が取り込んだのだろうな、と。
ところで、発祥から通底されてきた質素清貧を旨とする佗び茶の世界観に、なぜ贅沢の極みとも言える金や銀を取り入れる事が出来たのか?それには、茶道具に金色が用いられることとなった歴史の転換点が関係するのかもしれない。
ここからは私の想像だが、恐らく小堀遠州の武家茶道『綺麗さび』の思想や、金森宗和を元とする公家茶が、それに大きく関わる。
利休・織部による室町時代の草庵式の佗び茶から、江戸文化(あえて言えば、貴族文化、武家文化、中国文化、南蛮文化など多様な文化の統合体)も取り込むことで考案された書院式の武家茶道が遠州流の綺麗さびだ。織部の侘び茶は堅苦しすぎると言い、佗び茶には無かった「華やかさ」という新たな軸を作り、それを肯定したのが綺麗さび(なお、当時は茶道の象徴的用語ではなく道具に対する形容として用いられており、遠州の象徴として固定されるのは昭和に入ってから)。一方、宗和流の始祖である金森宗和は、京焼の野々村仁清を重用した茶人であり、小堀遠州とも親交を持つ。公家との交友は深く、茶碗にも金彩の模様が用いられるようになった。そして、遠州は徳川将軍家の茶道指南役である。
こうしたネットワークの中から、金粉を粘した直しもまた茶道における寂びに含まれるというお墨付きが広まることとなったのではないかと思う。これを起点として江戸や堺の侘数寄者が直しに金継ぎを導入するようになり、後に千家も金継ぎを認めることとなる。そんな流れがあったのではないだろうか。
金継ぎは侘び寂びではなく、江戸文化を取り込んだ綺麗さびのネットワークを発祥とする、と考えるといろいろと納得もできるような感じがする。
noteの金継ぎ解説を一区切り付けたので、その後の暇つぶしで侘び寂びについて掘っている。
そこで気付いたのは、侘び茶が当時の外国被れに対するカウンターカルチャーだったのは間違いないとして、その起こりとなった精神的な部分は平安時代の国風文化なんだろうなぁという事。
無論、国風文化は貴族の文化だから、市井の民の暮らしぶりとは真逆な優雅さはあるわけだが、古文書に残る平安の言葉の概念と見比べると、思想的にはとてもよく似ている。国風文化から生まれた自然観に幾ばくかの切なさを含め、それを美と判断するセンスを室町後期では「寂びる」と表現したらしいが、敢えて「佗び(侘び)茶」という用語を選んだ辺りに、これはリスペクトであって真似ではないからな、そこんとこヨロシクという茶人の気骨を感じたりはする。だから寂び茶ではないのだろう。
ちなみに現在、寂びは時間的な物憂げにある美、侘びは物質的な物憂げにある美とAIは解説したりするのだが、言語の変遷から定義すると、自然の中に発生する物憂げを見付ける審美眼が『寂び』、自らの生活スタイル(=人生)で物憂げを肯定的に実践するのが『侘び』なんだそうな。自分の立ち位置とか心のベクトルが違うというのは意外と認知されていない。
それと、あぁやっぱりそうなのか面白いなぁと思ったのは、侘び茶の考え方は時代によって表現方法の変遷があるということ。根底は同じなのだろうが、茶の真髄に侘び寂びという言葉を象徴的に使用するようになったのは利休死後1世紀の江戸初期(このとき制作された記念創作本が、茶道の話でよく出てくる『南方録』)と、それからずっと後の昭和における国文学研究との関連で登場。第二次世界大戦前は寂びが重要視され、大戦後は侘びが重要視されることとなり、そして、侘び寂びとして周知されたのは戦後って話。それ以外の時代は和敬静寂や簡素、質素などの言葉が多く使われている。和敬静寂は利休が自分から言ったという話になっているらしいから、そのまま和敬静寂を使えば良いような気もするけど、もうちょっとミステリアスでキャッチーな名詞が欲しかったのかね。
それで、ずっと疑問だった、金継ぎは本当に侘び寂び発祥なのか?という点も何となく解決した。
そもそも、利休は秀吉と黄金茶室で喧嘩をしたり、金色を茶室で使う事自体を快く思っていなかったという伝書は多く、金襴の表具は愚か者の目を驚かすだけの痴人脅しとか言っているし、江戸時代に入るまで直しの記述や茶道具は有っても金が蒔かれた様子は無く、直しに「漆を以て之を補う 金粉を粘す(粘りつかせる)」という表現が登場するのは喜田川守貞の著『守貞謾稿 』巻六の焼継ぎの説明中で、守貞漫稿の製作は江戸後期。つまり江戸中期に小規模で行われていた可能性はあるが、記述として残される程度に認知されたのは江戸後期になってからと思われる(ただし金継ぎや金繕いという名称はまだ登場していない)が、どう考えても侘び茶の発生と同時期ほど古くはない。
そこで先の話に出てくる「侘び寂びが茶の理念になるのは昭和まで確定しなかった」のくだり。それで合点が行った。やはり金継ぎは侘び茶と同時に発祥したのではなく、江戸になってから侘び茶が取り込んだのだろうな、と。
ところで、発祥から通底されてきた質素清貧を旨とする佗び茶の世界観に、なぜ贅沢の極みとも言える金や銀を取り入れる事が出来たのか?それには、茶道具に金色が用いられることとなった歴史の転換点が関係するのかもしれない。
ここからは私の想像だが、恐らく小堀遠州の武家茶道『綺麗さび』の思想や、金森宗和を元とする公家茶が、それに大きく関わる。
利休・織部による室町時代の草庵式の佗び茶から、江戸文化(あえて言えば、貴族文化、武家文化、中国文化、南蛮文化など多様な文化の統合体)も取り込むことで考案された書院式の武家茶道が遠州流の綺麗さびだ。織部の侘び茶は堅苦しすぎると言い、佗び茶には無かった「華やかさ」という新たな軸を作り、それを肯定したのが綺麗さび(なお、当時は茶道の象徴的用語ではなく道具に対する形容として用いられており、遠州の象徴として固定されるのは昭和に入ってから)。一方、宗和流の始祖である金森宗和は、京焼の野々村仁清を重用した茶人であり、小堀遠州とも親交を持つ。公家との交友は深く、茶碗にも金彩の模様が用いられるようになった。そして、遠州は徳川将軍家の茶道指南役である。
こうしたネットワークの中から、金粉を粘した直しもまた茶道における寂びに含まれるというお墨付きが広まることとなったのではないかと思う。これを起点として江戸や堺の侘数寄者が直しに金継ぎを導入するようになり、後に千家も金継ぎを認めることとなる。そんな流れがあったのではないだろうか。
金継ぎは侘び寂びではなく、江戸文化を取り込んだ綺麗さびのネットワークを発祥とする、と考えるといろいろと納得もできるような感じがする。