No.114
文化的充実とは何か、という話
No.
114
:
Posted at
2025年08月12日(火)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
note『案外 書かれない金継ぎの話』のネタが切れたので一段落ということにした話を前回書いて、最後のところでChatGPTで見やすい図解を作って差し替えるのはやりたいと言っていたのだが、予想より早く差し替えが完了した。無料だと画像生成は1日3回しかチャレンジが認められていないので、こりゃぁ先は長いだろうと思っていたが、プロンプトの指定をかなり細かくやっておくと大体1~2日、つまり6回あれば概ねこちらの意図を汲み取った事をやってくれるというのが分かり、殆どは6回掛からずに出来たので2週間くらいで元絵は出来上がって、そこからフォトピー で少しフォトレタッチなどでChatGPTの生成画像の不足分を補ったりして、これなら少なくとも手書き絵を貼っておくよりは良かろうというレベルになったのでOKにした。
で、図解の差し替えだけで十分だろうと思っていたのだが、図解に合わせて文章も少し修正が必要だったり、3、4年前の不勉強ゆえに間違えている部分もあったりして、結局、本で言うところの重版みたいな感じで割とあちこち推敲もやった。
改めて自分が書いたnoteを読み直していて思い出したのが、自分が何故、修理することに拘っているのかという原点だった。
店を始めたきっかけは、当時、実用陶磁器の直しをやっている人間が殆ど居なかったからというのは以前に書いた通りなのだが、栃木に帰って陶器の修理屋をやろうと決めた根っこの部分って、そういえば、文化の充実性みたいなものに気付いたからだった。
資本主義において社会の充実は、物質の『量』と『進歩』が最優先される。要するに、物がたくさん有り、そのたくさん有るものが常にブラッシュアップされていく状態を充実と認識する。しかし、本当にそうなのか?充実とは一方向に進むことなのか?その結果、大量生産と大量消費が加速し物を直せなくなっている事にも気付かないのは、むしろ退化ではないのか、と。本来は、作ったら使い続けることが大切で、使い続けるにはメンテナンスが不可欠なわけで、要するに『作る事と直す事』の両立があって物作りはバランスが取れた自然な状態であると言えるのではないだろうか。このバランスが取れていることが文化的充実なのではないかと思ったわけである。
そのためには、修理保証もなく生産され続けている陶磁器の直しの確立が不可欠だ。単に形が整っただけの一過性の作業ではなく、メンテナンスし続けられるだけの理論的で体系的な直しを考えなければいけない。そんな気持ちがあった。
今の金継ぎブームを見ていると、どうも自分とは馴染まないと常々感じていたのだが、その根本原因は、ブームの金継ぎが『一点物』や投機的『アート』という生産方向だけに肥大している(というか、それしか考えていない)からなのだろう。見た目は直しだが、その実は『映え』でしかない。
もっと言ってしまえば、自分なら壊れた器をもっとブラッシュアップできるんだぜとか、何なら器よりも目立ちたいという既存の器に対する無意識な見下しというか、それまで使われてきた器が持つ時間や関係を目新しさだけで蔑ろにしている感じというか、要するに壊れた器をキャンバスや遊具にしか考えていない感じが、どうにもやりきれない。器の色は金のための下地ではなく、世に出せると器の創り手が判断した色の完成形であり、買い手が気に入って選び、使い続けてきたという歴史だ。その部分が完全に抜け落ちて、金色の新しいものを作ることにしか目が向いていない。
文化のバランスとして考えた場合にも、明らかにブームの金継ぎはバランスが悪い。金継ぎという名の消費が進んだだけな気がする。
だが、もう、この流れは私一人が何かを言ったところでどうしようもないと思う。それくらい歪んだ構造の金継ぎっぽいものはメジャーになりすぎた。
だから、私はnoteを書く時、無意識に、ことさら修理に拘ったのだろう。そして、この考え方は今のブームの金継ぎをやっている人間には絶対に届かないとも思う。
それでもかまわぬ。noteの金継ぎ解説は、今のブームのために書いているのではない。ブームが去った後、100年後の修理屋のために書き残しておくことにする。映えは100年以内に詰むと思う。その時、どこかの修理屋がnoteの文章を見つけてくれれば、それが一番良いような気がしている。
note『案外 書かれない金継ぎの話』のネタが切れたので一段落ということにした話を前回書いて、最後のところでChatGPTで見やすい図解を作って差し替えるのはやりたいと言っていたのだが、予想より早く差し替えが完了した。無料だと画像生成は1日3回しかチャレンジが認められていないので、こりゃぁ先は長いだろうと思っていたが、プロンプトの指定をかなり細かくやっておくと大体1~2日、つまり6回あれば概ねこちらの意図を汲み取った事をやってくれるというのが分かり、殆どは6回掛からずに出来たので2週間くらいで元絵は出来上がって、そこからフォトピー で少しフォトレタッチなどでChatGPTの生成画像の不足分を補ったりして、これなら少なくとも手書き絵を貼っておくよりは良かろうというレベルになったのでOKにした。
で、図解の差し替えだけで十分だろうと思っていたのだが、図解に合わせて文章も少し修正が必要だったり、3、4年前の不勉強ゆえに間違えている部分もあったりして、結局、本で言うところの重版みたいな感じで割とあちこち推敲もやった。
改めて自分が書いたnoteを読み直していて思い出したのが、自分が何故、修理することに拘っているのかという原点だった。
店を始めたきっかけは、当時、実用陶磁器の直しをやっている人間が殆ど居なかったからというのは以前に書いた通りなのだが、栃木に帰って陶器の修理屋をやろうと決めた根っこの部分って、そういえば、文化の充実性みたいなものに気付いたからだった。
資本主義において社会の充実は、物質の『量』と『進歩』が最優先される。要するに、物がたくさん有り、そのたくさん有るものが常にブラッシュアップされていく状態を充実と認識する。しかし、本当にそうなのか?充実とは一方向に進むことなのか?その結果、大量生産と大量消費が加速し物を直せなくなっている事にも気付かないのは、むしろ退化ではないのか、と。本来は、作ったら使い続けることが大切で、使い続けるにはメンテナンスが不可欠なわけで、要するに『作る事と直す事』の両立があって物作りはバランスが取れた自然な状態であると言えるのではないだろうか。このバランスが取れていることが文化的充実なのではないかと思ったわけである。
そのためには、修理保証もなく生産され続けている陶磁器の直しの確立が不可欠だ。単に形が整っただけの一過性の作業ではなく、メンテナンスし続けられるだけの理論的で体系的な直しを考えなければいけない。そんな気持ちがあった。
今の金継ぎブームを見ていると、どうも自分とは馴染まないと常々感じていたのだが、その根本原因は、ブームの金継ぎが『一点物』や投機的『アート』という生産方向だけに肥大している(というか、それしか考えていない)からなのだろう。見た目は直しだが、その実は『映え』でしかない。
もっと言ってしまえば、自分なら壊れた器をもっとブラッシュアップできるんだぜとか、何なら器よりも目立ちたいという既存の器に対する無意識な見下しというか、それまで使われてきた器が持つ時間や関係を目新しさだけで蔑ろにしている感じというか、要するに壊れた器をキャンバスや遊具にしか考えていない感じが、どうにもやりきれない。器の色は金のための下地ではなく、世に出せると器の創り手が判断した色の完成形であり、買い手が気に入って選び、使い続けてきたという歴史だ。その部分が完全に抜け落ちて、金色の新しいものを作ることにしか目が向いていない。
文化のバランスとして考えた場合にも、明らかにブームの金継ぎはバランスが悪い。金継ぎという名の消費が進んだだけな気がする。
だが、もう、この流れは私一人が何かを言ったところでどうしようもないと思う。それくらい歪んだ構造の金継ぎっぽいものはメジャーになりすぎた。
だから、私はnoteを書く時、無意識に、ことさら修理に拘ったのだろう。そして、この考え方は今のブームの金継ぎをやっている人間には絶対に届かないとも思う。
それでもかまわぬ。noteの金継ぎ解説は、今のブームのために書いているのではない。ブームが去った後、100年後の修理屋のために書き残しておくことにする。映えは100年以内に詰むと思う。その時、どこかの修理屋がnoteの文章を見つけてくれれば、それが一番良いような気がしている。