猫田に小判 -新館 -

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No.111

#徒然なる日記 #金継ぎ

セラピー方面でおそらく火が付いて、すっかり定着してしまった感のある「金継ぎは壊れた事を受け入れるために、わざと修理箇所を目立たせている」という文言がある。
金継ぎした物を見てそこから何かを発想するという思考実験は美術鑑賞の基本だから、その考え方自体を否定する気は全く無いのだが、セラピー金継ぎで問題となるのは、自分が物を見て感じた一つの可能性という事を完全に無視して(というか意図的に隠して)、金継ぎが歴史的にそういう思想を元に行われ続けてきたと提示したことにある。
セラピーは基本的に心が弱っている人間、言い換えれば思考を巡らせるという能力が低下して藁をも掴みたい状態の人間を対象として行われる。そこに漬け込んで、有りもしない金継ぎの歴史で洗脳させるから、器を破壊することに躊躇が無くなったり、金色をダシにして法外な値段をふっかけられていることに気付かなくなったりする。更に酷いと金継ぎの技法を教える側の人間までが何の考えもなくセラピーの文言をワークショップの宣伝に使っていたりする。

そもそも壊れたことを目立たせるという発想は、目立たせない修理が存在しているという前提があり、その相対として成立するものなわけだが、漆を使って陶磁器を直すと間違いなく修理箇所は黒ずんで目立つ。漆自体が飴色な上に陶磁器に必ず含まれる鉄と反応するから、顔料を入れても色が黒ずむのは必然だ。
つまり昔から漆の修理品は目立つという事が周知されており、だから完品よりも格下の道具というランク付けがされていた。そこから敢えて目立たせるという思考が生まれたりすることはない。目立たせるための直しという発想は、透明な合成接着剤や変色しにくい顔料が発明されたり、あるいは器にペイントできる絵の具を使った目立たない直しがある事を知っている人間から出てくるもので、古来には無い考え方のはずだ。

では、金継ぎに金蒔き絵が導入されたのは、なぜか。金はあくまでも黒ずみを隠すための「虚飾」「見栄え」としての遊び心に過ぎない。
おそらく茶を飲む時に使える耐水耐熱性の修理剤として漆が用いられ、最初は修理箇所を気にしながらコソコソと使っていたものが、江戸の商人文化が隆盛になる辺りで天才的な発想をする人間あるいは洒落た感覚の粋な人間が金属粉で黒ずみを被覆する蒔絵の手法を導入したのだろう(ちなみに江戸時代に金継ぎという言葉はまだ生まれていなかったようなので、金継ぎとして成立したのはもっと後世の可能性もある)。つまり金色は目立たせるためではなく上手い隠し方が本意だと言って良い。そして、虚飾であった金属色には、後に「見立て(景色)」という役割(約束事)が与えられたことで、やっと道具としての居場所を確保できるようになった。たぶんそんな経緯で金継ぎは認知されたのではないかと思う。

だから、金継ぎされた物を見ていろいろと思考を巡らせるのは大いに結構だが、金継ぎを過度な救いを求める象徴としたり、救われるために平然と物を壊して金色に塗り直すような洗脳装置として使うことは、金継ぎに対する侮辱というか申し訳ないことをしているのではないかと個人的には思っている。

〔 1350文字 〕 編集

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