No.112
今の金継ぎの「不完全美」は不自然だろうという話
No.
112
:
Posted at
2025年04月14日(月)
#徒然なる日記 #金継ぎ #陶芸
金継ぎがブームになってから、やたらと持ち上げられるようになった不完全美。
利休が説いた茶の湯の精神『詫び』が不完全美を包括していることに間違いはないのだが、果たして金継ぎが不完全美を表しているかというと、これはかなり疑問視する必要があると個人的には考えている。
少なくとも伝世品を見る限りにおいて、物を直すという習慣はあったにせよ、茶道具を漆で直し金や銀の加色をするという概念が在ったのかは甚だ疑問である。
利休が所持していたと言われる伝世品の茶道具にはヒビのあるものが幾つかある。
「一重口水指 柴庵 」
「竹一重切花入 園城寺 」
「青磁鯱耳花入 砧花入 」
「古芦屋 春日野釜 」
上記のうち、砧花入と春日野釜については鋦瓷(鎹(かすがい)による直し)を行っているが、加色などは行ってはいない。
利休の弟子とされる古田織部もまたヒビの入った伝世品があり、中でも有名なものが
「古伊賀水指 破袋 」
である。今後、これほどのものは出てこないだろうと書き置きしたという。
また、古田織部に師事したとされる本阿弥光悦の楽茶碗には、特に制作途中で生じたヒビ(裂)のあるものが多く、陶芸家の加藤唐九郎はヒビの無い茶碗は光悦ではないとまで言っており、光悦が破袋を一つの完成形として見ていたであろうことは想像に難くない。
「赤楽茶碗 雪峯 」
「楽焼黒茶碗 雨雲 」
「黒楽茶碗 時雨 」
「赤楽茶碗 乙御前 」
雪峯は今や金継ぎの代名詞にもなっているが、本来は腰落ちによって生じた縦裂が元からあったヒビで、後に破損した際、縦裂にも金が塗られることになったわけでオリジナルの雪峯は最初から金が加色されてはいないだろう。(そもそも銘が雪峯なわけだし)
これらの伝世品を見て分かるのは、ヒビそのものが茶器の「詫び」であり、直す事が必ずしも美徳となるわけではないという視点があるのではないかという事だ。
花入の円城寺には、水漏れする掛花入を床の間に飾るのは如何なものかと言われた利休が「水漏れすることがこの花入の良さだ(個性だ)」と返したというエピソードがあり、直さない事で詫びの境地を示すことも出来るという利休の考えをよく表しているのではないかと個人的には思ったりする。
つまり、利休から始まる『詫び』が内包する不完全美とは茶器が持つヒビそのものの、もっと言えば茶席に現れるヒビそのものであり、ヒビを不自然に加色することはむしろ詫びから離れることになるのではないだろうか。
今の金継ぎブームは、殊更に直す事や金などの加色を入れて、詫びだ不完全美だと声高に主張する傾向が強い。だからブームの金継ぎは、どうにもビジネス的な物語臭が強く、本来の詫びをむしろ愚弄していると言ってもいいくらいではないかとさえ思ってしまう。
直す事が美しいのではなく、それ以前から美しさというのは既に存在している。それが詫びの持つ不完全美の本来の意味なのではないだろうか。
そして、これは完全に個人的見解なのだが、仮に金継ぎを不完全美として組み入れようとするなら、それは名器が持つヒビ(裂)の見立てという約束事の上で成立することが出来るものなのかもしれない。
金継ぎがブームになってから、やたらと持ち上げられるようになった不完全美。
利休が説いた茶の湯の精神『詫び』が不完全美を包括していることに間違いはないのだが、果たして金継ぎが不完全美を表しているかというと、これはかなり疑問視する必要があると個人的には考えている。
少なくとも伝世品を見る限りにおいて、物を直すという習慣はあったにせよ、茶道具を漆で直し金や銀の加色をするという概念が在ったのかは甚だ疑問である。
利休が所持していたと言われる伝世品の茶道具にはヒビのあるものが幾つかある。
「一重口水指 柴庵 」
「竹一重切花入 園城寺 」
「青磁鯱耳花入 砧花入 」
「古芦屋 春日野釜 」
上記のうち、砧花入と春日野釜については鋦瓷(鎹(かすがい)による直し)を行っているが、加色などは行ってはいない。
利休の弟子とされる古田織部もまたヒビの入った伝世品があり、中でも有名なものが
「古伊賀水指 破袋 」
である。今後、これほどのものは出てこないだろうと書き置きしたという。
また、古田織部に師事したとされる本阿弥光悦の楽茶碗には、特に制作途中で生じたヒビ(裂)のあるものが多く、陶芸家の加藤唐九郎はヒビの無い茶碗は光悦ではないとまで言っており、光悦が破袋を一つの完成形として見ていたであろうことは想像に難くない。
「赤楽茶碗 雪峯 」
「楽焼黒茶碗 雨雲 」
「黒楽茶碗 時雨 」
「赤楽茶碗 乙御前 」
雪峯は今や金継ぎの代名詞にもなっているが、本来は腰落ちによって生じた縦裂が元からあったヒビで、後に破損した際、縦裂にも金が塗られることになったわけでオリジナルの雪峯は最初から金が加色されてはいないだろう。(そもそも銘が雪峯なわけだし)
これらの伝世品を見て分かるのは、ヒビそのものが茶器の「詫び」であり、直す事が必ずしも美徳となるわけではないという視点があるのではないかという事だ。
花入の円城寺には、水漏れする掛花入を床の間に飾るのは如何なものかと言われた利休が「水漏れすることがこの花入の良さだ(個性だ)」と返したというエピソードがあり、直さない事で詫びの境地を示すことも出来るという利休の考えをよく表しているのではないかと個人的には思ったりする。
つまり、利休から始まる『詫び』が内包する不完全美とは茶器が持つヒビそのものの、もっと言えば茶席に現れるヒビそのものであり、ヒビを不自然に加色することはむしろ詫びから離れることになるのではないだろうか。
今の金継ぎブームは、殊更に直す事や金などの加色を入れて、詫びだ不完全美だと声高に主張する傾向が強い。だからブームの金継ぎは、どうにもビジネス的な物語臭が強く、本来の詫びをむしろ愚弄していると言ってもいいくらいではないかとさえ思ってしまう。
直す事が美しいのではなく、それ以前から美しさというのは既に存在している。それが詫びの持つ不完全美の本来の意味なのではないだろうか。
そして、これは完全に個人的見解なのだが、仮に金継ぎを不完全美として組み入れようとするなら、それは名器が持つヒビ(裂)の見立てという約束事の上で成立することが出来るものなのかもしれない。