No.115, No.114, No.113, No.112, No.111, No.110, No.109[7件]
侘び寂びと金継ぎはどう関係してきたのか?という話
No.
115
:
Posted at
2025年08月21日(木)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
noteの金継ぎ解説を一区切り付けたので、その後の暇つぶしで侘び寂びについて掘っている。
そこで気付いたのは、侘び茶が当時の外国被れに対するカウンターカルチャーだったのは間違いないとして、その起こりとなった精神的な部分は平安時代の国風文化なんだろうなぁという事。
無論、国風文化は貴族の文化だから、市井の民の暮らしぶりとは真逆な優雅さはあるわけだが、古文書に残る平安の言葉の概念と見比べると、思想的にはとてもよく似ている。国風文化から生まれた自然観に幾ばくかの切なさを含め、それを美と判断するセンスを室町後期では「寂びる」と表現したらしいが、敢えて「佗び(侘び)茶」という用語を選んだ辺りに、これはリスペクトであって真似ではないからな、そこんとこヨロシクという茶人の気骨を感じたりはする。だから寂び茶ではないのだろう。
ちなみに現在、寂びは時間的な物憂げにある美、侘びは物質的な物憂げにある美とAIは解説したりするのだが、言語の変遷から定義すると、自然の中に発生する物憂げを見付ける審美眼が『寂び』、自らの生活スタイル(=人生)で物憂げを肯定的に実践するのが『侘び』なんだそうな。自分の立ち位置とか心のベクトルが違うというのは意外と認知されていない。
それと、あぁやっぱりそうなのか面白いなぁと思ったのは、侘び茶の考え方は時代によって表現方法の変遷があるということ。根底は同じなのだろうが、茶の真髄に侘び寂びという言葉を象徴的に使用するようになったのは利休死後1世紀の江戸初期(このとき制作された記念創作本が、茶道の話でよく出てくる『南方録』)と、それからずっと後の昭和における国文学研究との関連で登場。第二次世界大戦前は寂びが重要視され、大戦後は侘びが重要視されることとなり、そして、侘び寂びとして周知されたのは戦後って話。それ以外の時代は和敬静寂や簡素、質素などの言葉が多く使われている。和敬静寂は利休が自分から言ったという話になっているらしいから、そのまま和敬静寂を使えば良いような気もするけど、もうちょっとミステリアスでキャッチーな名詞が欲しかったのかね。
それで、ずっと疑問だった、金継ぎは本当に侘び寂び発祥なのか?という点も何となく解決した。
そもそも、利休は秀吉と黄金茶室で喧嘩をしたり、金色を茶室で使う事自体を快く思っていなかったという伝書は多く、金襴の表具は愚か者の目を驚かすだけの痴人脅しとか言っているし、江戸時代に入るまで直しの記述や茶道具は有っても金が蒔かれた様子は無く、直しに「漆を以て之を補う 金粉を粘す(粘りつかせる)」という表現が登場するのは喜田川守貞の著『守貞謾稿 』巻六の焼継ぎの説明中で、守貞漫稿の製作は江戸後期。つまり江戸中期に小規模で行われていた可能性はあるが、記述として残される程度に認知されたのは江戸後期になってからと思われる(ただし金継ぎや金繕いという名称はまだ登場していない)が、どう考えても侘び茶の発生と同時期ほど古くはない。
そこで先の話に出てくる「侘び寂びが茶の理念になるのは昭和まで確定しなかった」のくだり。それで合点が行った。やはり金継ぎは侘び茶と同時に発祥したのではなく、江戸になってから侘び茶が取り込んだのだろうな、と。
ところで、発祥から通底されてきた質素清貧を旨とする佗び茶の世界観に、なぜ贅沢の極みとも言える金や銀を取り入れる事が出来たのか?それには、茶道具に金色が用いられることとなった歴史の転換点が関係するのかもしれない。
ここからは私の想像だが、恐らく小堀遠州の武家茶道『綺麗さび』の思想や、金森宗和を元とする公家茶が、それに大きく関わる。
利休・織部による室町時代の草庵式の佗び茶から、江戸文化(あえて言えば、貴族文化、武家文化、中国文化、南蛮文化など多様な文化の統合体)も取り込むことで考案された書院式の武家茶道が遠州流の綺麗さびだ。織部の侘び茶は堅苦しすぎると言い、佗び茶には無かった「華やかさ」という新たな軸を作り、それを肯定したのが綺麗さび(なお、当時は茶道の象徴的用語ではなく道具に対する形容として用いられており、遠州の象徴として固定されるのは昭和に入ってから)。一方、宗和流の始祖である金森宗和は、京焼の野々村仁清を重用した茶人であり、小堀遠州とも親交を持つ。公家との交友は深く、茶碗にも金彩の模様が用いられるようになった。そして、遠州は徳川将軍家の茶道指南役である。
こうしたネットワークの中から、金粉を粘した直しもまた茶道における寂びに含まれるというお墨付きが広まることとなったのではないかと思う。これを起点として江戸や堺の侘数寄者が直しに金継ぎを導入するようになり、後に千家も金継ぎを認めることとなる。そんな流れがあったのではないだろうか。
金継ぎは侘び寂びではなく、江戸文化を取り込んだ綺麗さびのネットワークを発祥とする、と考えるといろいろと納得もできるような感じがする。
noteの金継ぎ解説を一区切り付けたので、その後の暇つぶしで侘び寂びについて掘っている。
そこで気付いたのは、侘び茶が当時の外国被れに対するカウンターカルチャーだったのは間違いないとして、その起こりとなった精神的な部分は平安時代の国風文化なんだろうなぁという事。
無論、国風文化は貴族の文化だから、市井の民の暮らしぶりとは真逆な優雅さはあるわけだが、古文書に残る平安の言葉の概念と見比べると、思想的にはとてもよく似ている。国風文化から生まれた自然観に幾ばくかの切なさを含め、それを美と判断するセンスを室町後期では「寂びる」と表現したらしいが、敢えて「佗び(侘び)茶」という用語を選んだ辺りに、これはリスペクトであって真似ではないからな、そこんとこヨロシクという茶人の気骨を感じたりはする。だから寂び茶ではないのだろう。
ちなみに現在、寂びは時間的な物憂げにある美、侘びは物質的な物憂げにある美とAIは解説したりするのだが、言語の変遷から定義すると、自然の中に発生する物憂げを見付ける審美眼が『寂び』、自らの生活スタイル(=人生)で物憂げを肯定的に実践するのが『侘び』なんだそうな。自分の立ち位置とか心のベクトルが違うというのは意外と認知されていない。
それと、あぁやっぱりそうなのか面白いなぁと思ったのは、侘び茶の考え方は時代によって表現方法の変遷があるということ。根底は同じなのだろうが、茶の真髄に侘び寂びという言葉を象徴的に使用するようになったのは利休死後1世紀の江戸初期(このとき制作された記念創作本が、茶道の話でよく出てくる『南方録』)と、それからずっと後の昭和における国文学研究との関連で登場。第二次世界大戦前は寂びが重要視され、大戦後は侘びが重要視されることとなり、そして、侘び寂びとして周知されたのは戦後って話。それ以外の時代は和敬静寂や簡素、質素などの言葉が多く使われている。和敬静寂は利休が自分から言ったという話になっているらしいから、そのまま和敬静寂を使えば良いような気もするけど、もうちょっとミステリアスでキャッチーな名詞が欲しかったのかね。
それで、ずっと疑問だった、金継ぎは本当に侘び寂び発祥なのか?という点も何となく解決した。
そもそも、利休は秀吉と黄金茶室で喧嘩をしたり、金色を茶室で使う事自体を快く思っていなかったという伝書は多く、金襴の表具は愚か者の目を驚かすだけの痴人脅しとか言っているし、江戸時代に入るまで直しの記述や茶道具は有っても金が蒔かれた様子は無く、直しに「漆を以て之を補う 金粉を粘す(粘りつかせる)」という表現が登場するのは喜田川守貞の著『守貞謾稿 』巻六の焼継ぎの説明中で、守貞漫稿の製作は江戸後期。つまり江戸中期に小規模で行われていた可能性はあるが、記述として残される程度に認知されたのは江戸後期になってからと思われる(ただし金継ぎや金繕いという名称はまだ登場していない)が、どう考えても侘び茶の発生と同時期ほど古くはない。
そこで先の話に出てくる「侘び寂びが茶の理念になるのは昭和まで確定しなかった」のくだり。それで合点が行った。やはり金継ぎは侘び茶と同時に発祥したのではなく、江戸になってから侘び茶が取り込んだのだろうな、と。
ところで、発祥から通底されてきた質素清貧を旨とする佗び茶の世界観に、なぜ贅沢の極みとも言える金や銀を取り入れる事が出来たのか?それには、茶道具に金色が用いられることとなった歴史の転換点が関係するのかもしれない。
ここからは私の想像だが、恐らく小堀遠州の武家茶道『綺麗さび』の思想や、金森宗和を元とする公家茶が、それに大きく関わる。
利休・織部による室町時代の草庵式の佗び茶から、江戸文化(あえて言えば、貴族文化、武家文化、中国文化、南蛮文化など多様な文化の統合体)も取り込むことで考案された書院式の武家茶道が遠州流の綺麗さびだ。織部の侘び茶は堅苦しすぎると言い、佗び茶には無かった「華やかさ」という新たな軸を作り、それを肯定したのが綺麗さび(なお、当時は茶道の象徴的用語ではなく道具に対する形容として用いられており、遠州の象徴として固定されるのは昭和に入ってから)。一方、宗和流の始祖である金森宗和は、京焼の野々村仁清を重用した茶人であり、小堀遠州とも親交を持つ。公家との交友は深く、茶碗にも金彩の模様が用いられるようになった。そして、遠州は徳川将軍家の茶道指南役である。
こうしたネットワークの中から、金粉を粘した直しもまた茶道における寂びに含まれるというお墨付きが広まることとなったのではないかと思う。これを起点として江戸や堺の侘数寄者が直しに金継ぎを導入するようになり、後に千家も金継ぎを認めることとなる。そんな流れがあったのではないだろうか。
金継ぎは侘び寂びではなく、江戸文化を取り込んだ綺麗さびのネットワークを発祥とする、と考えるといろいろと納得もできるような感じがする。
文化的充実とは何か、という話
No.
114
:
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2025年08月12日(火)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ
note『案外 書かれない金継ぎの話』のネタが切れたので一段落ということにした話を前回書いて、最後のところでChatGPTで見やすい図解を作って差し替えるのはやりたいと言っていたのだが、予想より早く差し替えが完了した。無料だと画像生成は1日3回しかチャレンジが認められていないので、こりゃぁ先は長いだろうと思っていたが、プロンプトの指定をかなり細かくやっておくと大体1~2日、つまり6回あれば概ねこちらの意図を汲み取った事をやってくれるというのが分かり、殆どは6回掛からずに出来たので2週間くらいで元絵は出来上がって、そこからフォトピー で少しフォトレタッチなどでChatGPTの生成画像の不足分を補ったりして、これなら少なくとも手書き絵を貼っておくよりは良かろうというレベルになったのでOKにした。
で、図解の差し替えだけで十分だろうと思っていたのだが、図解に合わせて文章も少し修正が必要だったり、3、4年前の不勉強ゆえに間違えている部分もあったりして、結局、本で言うところの重版みたいな感じで割とあちこち推敲もやった。
改めて自分が書いたnoteを読み直していて思い出したのが、自分が何故、修理することに拘っているのかという原点だった。
店を始めたきっかけは、当時、実用陶磁器の直しをやっている人間が殆ど居なかったからというのは以前に書いた通りなのだが、栃木に帰って陶器の修理屋をやろうと決めた根っこの部分って、そういえば、文化の充実性みたいなものに気付いたからだった。
資本主義において社会の充実は、物質の『量』と『進歩』が最優先される。要するに、物がたくさん有り、そのたくさん有るものが常にブラッシュアップされていく状態を充実と認識する。しかし、本当にそうなのか?充実とは一方向に進むことなのか?その結果、大量生産と大量消費が加速し物を直せなくなっている事にも気付かないのは、むしろ退化ではないのか、と。本来は、作ったら使い続けることが大切で、使い続けるにはメンテナンスが不可欠なわけで、要するに『作る事と直す事』の両立があって物作りはバランスが取れた自然な状態であると言えるのではないだろうか。このバランスが取れていることが文化的充実なのではないかと思ったわけである。
そのためには、修理保証もなく生産され続けている陶磁器の直しの確立が不可欠だ。単に形が整っただけの一過性の作業ではなく、メンテナンスし続けられるだけの理論的で体系的な直しを考えなければいけない。そんな気持ちがあった。
今の金継ぎブームを見ていると、どうも自分とは馴染まないと常々感じていたのだが、その根本原因は、ブームの金継ぎが『一点物』や投機的『アート』という生産方向だけに肥大している(というか、それしか考えていない)からなのだろう。見た目は直しだが、その実は『映え』でしかない。
もっと言ってしまえば、自分なら壊れた器をもっとブラッシュアップできるんだぜとか、何なら器よりも目立ちたいという既存の器に対する無意識な見下しというか、それまで使われてきた器が持つ時間や関係を目新しさだけで蔑ろにしている感じというか、要するに壊れた器をキャンバスや遊具にしか考えていない感じが、どうにもやりきれない。器の色は金のための下地ではなく、世に出せると器の創り手が判断した色の完成形であり、買い手が気に入って選び、使い続けてきたという歴史だ。その部分が完全に抜け落ちて、金色の新しいものを作ることにしか目が向いていない。
文化のバランスとして考えた場合にも、明らかにブームの金継ぎはバランスが悪い。金継ぎという名の消費が進んだだけな気がする。
だが、もう、この流れは私一人が何かを言ったところでどうしようもないと思う。それくらい歪んだ構造の金継ぎっぽいものはメジャーになりすぎた。
だから、私はnoteを書く時、無意識に、ことさら修理に拘ったのだろう。そして、この考え方は今のブームの金継ぎをやっている人間には絶対に届かないとも思う。
それでもかまわぬ。noteの金継ぎ解説は、今のブームのために書いているのではない。ブームが去った後、100年後の修理屋のために書き残しておくことにする。映えは100年以内に詰むと思う。その時、どこかの修理屋がnoteの文章を見つけてくれれば、それが一番良いような気がしている。
note『案外 書かれない金継ぎの話』のネタが切れたので一段落ということにした話を前回書いて、最後のところでChatGPTで見やすい図解を作って差し替えるのはやりたいと言っていたのだが、予想より早く差し替えが完了した。無料だと画像生成は1日3回しかチャレンジが認められていないので、こりゃぁ先は長いだろうと思っていたが、プロンプトの指定をかなり細かくやっておくと大体1~2日、つまり6回あれば概ねこちらの意図を汲み取った事をやってくれるというのが分かり、殆どは6回掛からずに出来たので2週間くらいで元絵は出来上がって、そこからフォトピー で少しフォトレタッチなどでChatGPTの生成画像の不足分を補ったりして、これなら少なくとも手書き絵を貼っておくよりは良かろうというレベルになったのでOKにした。
で、図解の差し替えだけで十分だろうと思っていたのだが、図解に合わせて文章も少し修正が必要だったり、3、4年前の不勉強ゆえに間違えている部分もあったりして、結局、本で言うところの重版みたいな感じで割とあちこち推敲もやった。
改めて自分が書いたnoteを読み直していて思い出したのが、自分が何故、修理することに拘っているのかという原点だった。
店を始めたきっかけは、当時、実用陶磁器の直しをやっている人間が殆ど居なかったからというのは以前に書いた通りなのだが、栃木に帰って陶器の修理屋をやろうと決めた根っこの部分って、そういえば、文化の充実性みたいなものに気付いたからだった。
資本主義において社会の充実は、物質の『量』と『進歩』が最優先される。要するに、物がたくさん有り、そのたくさん有るものが常にブラッシュアップされていく状態を充実と認識する。しかし、本当にそうなのか?充実とは一方向に進むことなのか?その結果、大量生産と大量消費が加速し物を直せなくなっている事にも気付かないのは、むしろ退化ではないのか、と。本来は、作ったら使い続けることが大切で、使い続けるにはメンテナンスが不可欠なわけで、要するに『作る事と直す事』の両立があって物作りはバランスが取れた自然な状態であると言えるのではないだろうか。このバランスが取れていることが文化的充実なのではないかと思ったわけである。
そのためには、修理保証もなく生産され続けている陶磁器の直しの確立が不可欠だ。単に形が整っただけの一過性の作業ではなく、メンテナンスし続けられるだけの理論的で体系的な直しを考えなければいけない。そんな気持ちがあった。
今の金継ぎブームを見ていると、どうも自分とは馴染まないと常々感じていたのだが、その根本原因は、ブームの金継ぎが『一点物』や投機的『アート』という生産方向だけに肥大している(というか、それしか考えていない)からなのだろう。見た目は直しだが、その実は『映え』でしかない。
もっと言ってしまえば、自分なら壊れた器をもっとブラッシュアップできるんだぜとか、何なら器よりも目立ちたいという既存の器に対する無意識な見下しというか、それまで使われてきた器が持つ時間や関係を目新しさだけで蔑ろにしている感じというか、要するに壊れた器をキャンバスや遊具にしか考えていない感じが、どうにもやりきれない。器の色は金のための下地ではなく、世に出せると器の創り手が判断した色の完成形であり、買い手が気に入って選び、使い続けてきたという歴史だ。その部分が完全に抜け落ちて、金色の新しいものを作ることにしか目が向いていない。
文化のバランスとして考えた場合にも、明らかにブームの金継ぎはバランスが悪い。金継ぎという名の消費が進んだだけな気がする。
だが、もう、この流れは私一人が何かを言ったところでどうしようもないと思う。それくらい歪んだ構造の金継ぎっぽいものはメジャーになりすぎた。
だから、私はnoteを書く時、無意識に、ことさら修理に拘ったのだろう。そして、この考え方は今のブームの金継ぎをやっている人間には絶対に届かないとも思う。
それでもかまわぬ。noteの金継ぎ解説は、今のブームのために書いているのではない。ブームが去った後、100年後の修理屋のために書き残しておくことにする。映えは100年以内に詰むと思う。その時、どこかの修理屋がnoteの文章を見つけてくれれば、それが一番良いような気がしている。
noteを一段落させたという話
No.
113
:
Posted at
2025年07月16日(水)
#徒然なる日記 #陶磁器修理 #金継ぎ
話をしたり書いたりする時、私は出来るだけ同じ切り口やネタは使わないようにしている。とはいえ、私の脳のキャパを考えれば無尽蔵にいろいろな視点や情報を持てるわけもないので、同じ話を使い回さなければいけないことは致し方がない。
金継ぎの修理店をやって20年(金継ぎ自体はもっと長いけど)、その間に調べたり解決してきた知識も出し尽くし、noteに書く内容がダブってきている感じがするなぁと思っていたのと、金継ぎを始めた頃からず~っと気になっていた漆の酵素や、乾かす時の湿度の働きについての解説が割と見つけにくいという事の一応の取っ掛かりみたいなものは書けただろいうという気持ちもあり、自分の中でのみ、この辺でnoteでの解説を一段落つけることにした。とりあえず金継ぎについて後世への楔は打てたような気はしている。
店を始めてから直した器の総数は3500点を超えることもあり、いろいろな種類のものを直し、個々の直しについての細かいノウハウみたいなものはまだ書けると思うが、あまり細かいところを書くのはマニアック過ぎて話が難しくなるし、何より器とはいえ個人情報に触れる部分も出てしまうかもしれないので、それは私の文章を書くポリシーに反する。
もし何年か仕事を続けることが出来て、それまでに疑問が出たり調べたりすることがあったら、忘れた頃に何か書くかもしれないので、最終回めいたことは何一つ書いていない。まぁ、そんな区切りの付け方があってもいいかなと思っている。
それと、前回の記事の時、ChatGPTに自分が手書きした下書きを読み込ませて、いろいろ指示を出してお願いすると、かなり綺麗に清書して図解として使えるレベルのものを作ってくれることが分かったので、今まで書いた解説で図があった方が理解がしやすそうだと思ったところには、少しずつAIで清書した図解を付けていく作業はやろうと思っている。ただChatGPTは無料だと24時間で3枚しかお願い出来ず、再指定でやり直しさせても1カウント取るので、意外に進まない。まぁ、あまり読む人はいないから地道にやっても何か言われることはないと思うんだけども。
話をしたり書いたりする時、私は出来るだけ同じ切り口やネタは使わないようにしている。とはいえ、私の脳のキャパを考えれば無尽蔵にいろいろな視点や情報を持てるわけもないので、同じ話を使い回さなければいけないことは致し方がない。
金継ぎの修理店をやって20年(金継ぎ自体はもっと長いけど)、その間に調べたり解決してきた知識も出し尽くし、noteに書く内容がダブってきている感じがするなぁと思っていたのと、金継ぎを始めた頃からず~っと気になっていた漆の酵素や、乾かす時の湿度の働きについての解説が割と見つけにくいという事の一応の取っ掛かりみたいなものは書けただろいうという気持ちもあり、自分の中でのみ、この辺でnoteでの解説を一段落つけることにした。とりあえず金継ぎについて後世への楔は打てたような気はしている。
店を始めてから直した器の総数は3500点を超えることもあり、いろいろな種類のものを直し、個々の直しについての細かいノウハウみたいなものはまだ書けると思うが、あまり細かいところを書くのはマニアック過ぎて話が難しくなるし、何より器とはいえ個人情報に触れる部分も出てしまうかもしれないので、それは私の文章を書くポリシーに反する。
もし何年か仕事を続けることが出来て、それまでに疑問が出たり調べたりすることがあったら、忘れた頃に何か書くかもしれないので、最終回めいたことは何一つ書いていない。まぁ、そんな区切りの付け方があってもいいかなと思っている。
それと、前回の記事の時、ChatGPTに自分が手書きした下書きを読み込ませて、いろいろ指示を出してお願いすると、かなり綺麗に清書して図解として使えるレベルのものを作ってくれることが分かったので、今まで書いた解説で図があった方が理解がしやすそうだと思ったところには、少しずつAIで清書した図解を付けていく作業はやろうと思っている。ただChatGPTは無料だと24時間で3枚しかお願い出来ず、再指定でやり直しさせても1カウント取るので、意外に進まない。まぁ、あまり読む人はいないから地道にやっても何か言われることはないと思うんだけども。
今の金継ぎの「不完全美」は不自然だろうという話
No.
112
:
Posted at
2025年04月14日(月)
#徒然なる日記 #金継ぎ #陶芸
金継ぎがブームになってから、やたらと持ち上げられるようになった不完全美。
利休が説いた茶の湯の精神『詫び』が不完全美を包括していることに間違いはないのだが、果たして金継ぎが不完全美を表しているかというと、これはかなり疑問視する必要があると個人的には考えている。
少なくとも伝世品を見る限りにおいて、物を直すという習慣はあったにせよ、茶道具を漆で直し金や銀の加色までするという概念が当初から在ったのかは甚だ疑問である。
利休が所持していたと言われる伝世品の茶道具にはヒビのあるものが幾つかある。
「一重口水指 柴庵 」
「竹一重切花入 園城寺 」
「青磁鯱耳花入 砧花入 」
「古芦屋 春日野釜 」
上記のうち、砧花入と春日野釜については鋦瓷(鎹(かすがい)による直し)を行っているが、加色などは行ってはいない。
また現存はしていないが、利休が初期の茶会で使ったと言われる「善好香炉」は、茶会記『松屋会記』に「ヒヽキ大小アリ」つまり大小の亀裂が生じていたと記録されている。
利休の弟子とされる古田織部もまたヒビの入った伝世品があり、中でも有名なものが
「古伊賀水指 破袋 」
である。今後、これほどのものは出てこないだろうと書き置きしたという。
また、古田織部に師事したとされる本阿弥光悦の楽茶碗には、特に制作途中で生じたヒビ(裂)のあるものが多く、陶芸家の加藤唐九郎はヒビの無い茶碗は光悦ではないとまで言っており、光悦が破袋を一つの完成形として見ていたであろうことは想像に難くない。
「赤楽茶碗 雪峯 」
「楽焼黒茶碗 雨雲 」
「黒楽茶碗 時雨 」
「赤楽茶碗 乙御前 」
「赤楽茶碗 太郎坊 」
雪峯は今や金継ぎの代名詞にもなっているが、本来は腰落ちによって生じた縦裂が元からあったヒビで、後に破損した際、縦裂にも金が塗られることになったわけでオリジナルの雪峯は最初から金が加色されてはいないだろう。(そもそも銘が雪峯なわけだし)
これらの伝世品を見て分かるのは、ヒビそのものが茶器の「詫び」であり、直す事が必ずしも美徳となるわけではないという視点があるのではないかという事だ。
花入の円城寺には、水漏れする掛花入を床の間に飾るのは如何なものかと言われた利休が「水漏れすることがこの花入の良さだ(個性だ)」と返したというエピソードがあり、直さない事で詫びの境地を示すことも出来るという利休の考えをよく表しているのではないかと個人的には思ったりする。
つまり、利休から始まる『詫び』が内包する不完全美とは茶器が持つヒビそのものの、もっと言えば茶席に現れるヒビそのものであり、ヒビを不自然に加色することはむしろ詫びから離れることになるのではないだろうか。
今の金継ぎブームは、殊更に組み立てる事や金などの加色を入れる事に意味があるとして、詫びだ不完全美だと声高に主張する傾向が強い。ブームの金継ぎは、どうにもビジネス的な物語臭が強く、本来の詫びをむしろ愚弄していると言ってもいいくらいではないかとさえ思ってしまう。
金色が美しいのではなく、それ以前から美しさというのは既に存在している。それが詫びの持つ不完全美の本来の意味なのではないだろうか。
そして、これは完全に個人的見解なのだが、仮に金継ぎを不完全美として組み入れようとするなら、それは名器が持つヒビ(裂)の見立てという約束事の上で成立することが出来るものなのかもしれない。
金継ぎがブームになってから、やたらと持ち上げられるようになった不完全美。
利休が説いた茶の湯の精神『詫び』が不完全美を包括していることに間違いはないのだが、果たして金継ぎが不完全美を表しているかというと、これはかなり疑問視する必要があると個人的には考えている。
少なくとも伝世品を見る限りにおいて、物を直すという習慣はあったにせよ、茶道具を漆で直し金や銀の加色までするという概念が当初から在ったのかは甚だ疑問である。
利休が所持していたと言われる伝世品の茶道具にはヒビのあるものが幾つかある。
「一重口水指 柴庵 」
「竹一重切花入 園城寺 」
「青磁鯱耳花入 砧花入 」
「古芦屋 春日野釜 」
上記のうち、砧花入と春日野釜については鋦瓷(鎹(かすがい)による直し)を行っているが、加色などは行ってはいない。
また現存はしていないが、利休が初期の茶会で使ったと言われる「善好香炉」は、茶会記『松屋会記』に「ヒヽキ大小アリ」つまり大小の亀裂が生じていたと記録されている。
利休の弟子とされる古田織部もまたヒビの入った伝世品があり、中でも有名なものが
「古伊賀水指 破袋 」
である。今後、これほどのものは出てこないだろうと書き置きしたという。
また、古田織部に師事したとされる本阿弥光悦の楽茶碗には、特に制作途中で生じたヒビ(裂)のあるものが多く、陶芸家の加藤唐九郎はヒビの無い茶碗は光悦ではないとまで言っており、光悦が破袋を一つの完成形として見ていたであろうことは想像に難くない。
「赤楽茶碗 雪峯 」
「楽焼黒茶碗 雨雲 」
「黒楽茶碗 時雨 」
「赤楽茶碗 乙御前 」
「赤楽茶碗 太郎坊 」
雪峯は今や金継ぎの代名詞にもなっているが、本来は腰落ちによって生じた縦裂が元からあったヒビで、後に破損した際、縦裂にも金が塗られることになったわけでオリジナルの雪峯は最初から金が加色されてはいないだろう。(そもそも銘が雪峯なわけだし)
これらの伝世品を見て分かるのは、ヒビそのものが茶器の「詫び」であり、直す事が必ずしも美徳となるわけではないという視点があるのではないかという事だ。
花入の円城寺には、水漏れする掛花入を床の間に飾るのは如何なものかと言われた利休が「水漏れすることがこの花入の良さだ(個性だ)」と返したというエピソードがあり、直さない事で詫びの境地を示すことも出来るという利休の考えをよく表しているのではないかと個人的には思ったりする。
つまり、利休から始まる『詫び』が内包する不完全美とは茶器が持つヒビそのものの、もっと言えば茶席に現れるヒビそのものであり、ヒビを不自然に加色することはむしろ詫びから離れることになるのではないだろうか。
今の金継ぎブームは、殊更に組み立てる事や金などの加色を入れる事に意味があるとして、詫びだ不完全美だと声高に主張する傾向が強い。ブームの金継ぎは、どうにもビジネス的な物語臭が強く、本来の詫びをむしろ愚弄していると言ってもいいくらいではないかとさえ思ってしまう。
金色が美しいのではなく、それ以前から美しさというのは既に存在している。それが詫びの持つ不完全美の本来の意味なのではないだろうか。
そして、これは完全に個人的見解なのだが、仮に金継ぎを不完全美として組み入れようとするなら、それは名器が持つヒビ(裂)の見立てという約束事の上で成立することが出来るものなのかもしれない。
金継ぎは修理痕を目立たせるためにやるのではないという話
No.
111
:
Posted at
2025年03月06日(木)
#徒然なる日記 #金継ぎ
セラピー方面でおそらく火が付いて、すっかり定着してしまった感のある「金継ぎは壊れた事を受け入れるために、わざと修理箇所を目立たせている」という文言がある。
金継ぎした物を見てそこから何かを発想するという思考実験は美術鑑賞の基本だから、その考え方自体を否定する気は全く無いのだが、セラピー金継ぎで問題となるのは、自分が物を見て感じた一つの可能性という事を完全に無視して(というか意図的に隠して)、金継ぎが歴史的にそういう思想を元に行われ続けてきたと提示したことにある。
セラピーは基本的に心が弱っている人間、言い換えれば思考を巡らせるという能力が低下して藁をも掴みたい状態の人間を対象として行われる。そこに漬け込んで、有りもしない金継ぎの歴史で洗脳させるから、器を破壊することに躊躇が無くなったり、金色をダシにして法外な値段をふっかけられていることに気付かなくなったりする。更に酷いと金継ぎの技法を教える側の人間までが何の考えもなくセラピーの文言をワークショップの宣伝に使っていたりする。
そもそも壊れたことを目立たせるという発想は、目立たせない修理の相対として成立するものなわけだが、漆を使って陶磁器を直すと間違いなく修理箇所は黒ずんで目立つ。漆自体が飴色な上に陶磁器に必ず含まれる鉄と反応するから、顔料を入れても色が黒ずむのは必然だ。
つまり昔から漆を使えば目立つという事が周知されており、だから基本的に完品よりも格下の道具というランク付けがされていた。そこから敢えて目立たせるという思考が生まれたりすることはない。目立たせるための直しという発想は、透明な合成接着剤で付けると跡が見えないという事を知っている人間から出てくるものだ。
では、金継ぎに金蒔絵が導入されたのは、なぜか。金はあくまでも黒ずみを隠すための「虚飾」「見栄え」としての遊び心に過ぎない。
茶を飲む時に使える耐水耐熱性の修理剤として漆が用いられ、最初は修理箇所を気にしながら使っていたものが、江戸の文化が隆盛になる辺りで天才的な発想をする人間あるいは洒落た感覚の粋な人間が金属粉で黒ずみを被覆する蒔絵の手法を導入したのだろう(ちなみに江戸時代に金継ぎという言葉はまだ生まれていなかったようなので、金継ぎというジャンルとして成立したのはもっと後世の可能性もある)。つまり金色は目立たせるためではなく上手い隠し方が本意だと言って良い。そして、虚飾であった金属色には、後に「景色」という役割(約束事)が与えられたことで、やっと道具としての居場所を確保できるようになった。たぶんそんな経緯で金継ぎは認知されたのではないかと思う。
だから、金継ぎされた物を見ていろいろと思考を巡らせるのは大いに結構だが、金継ぎを過度な救いを求める象徴としたり、救われるために平然と物を壊して金色に塗り直すような洗脳装置として使うことは、金継ぎに対する侮辱というか申し訳ないことをしているのではないかと個人的には思っている。
セラピー方面でおそらく火が付いて、すっかり定着してしまった感のある「金継ぎは壊れた事を受け入れるために、わざと修理箇所を目立たせている」という文言がある。
金継ぎした物を見てそこから何かを発想するという思考実験は美術鑑賞の基本だから、その考え方自体を否定する気は全く無いのだが、セラピー金継ぎで問題となるのは、自分が物を見て感じた一つの可能性という事を完全に無視して(というか意図的に隠して)、金継ぎが歴史的にそういう思想を元に行われ続けてきたと提示したことにある。
セラピーは基本的に心が弱っている人間、言い換えれば思考を巡らせるという能力が低下して藁をも掴みたい状態の人間を対象として行われる。そこに漬け込んで、有りもしない金継ぎの歴史で洗脳させるから、器を破壊することに躊躇が無くなったり、金色をダシにして法外な値段をふっかけられていることに気付かなくなったりする。更に酷いと金継ぎの技法を教える側の人間までが何の考えもなくセラピーの文言をワークショップの宣伝に使っていたりする。
そもそも壊れたことを目立たせるという発想は、目立たせない修理の相対として成立するものなわけだが、漆を使って陶磁器を直すと間違いなく修理箇所は黒ずんで目立つ。漆自体が飴色な上に陶磁器に必ず含まれる鉄と反応するから、顔料を入れても色が黒ずむのは必然だ。
つまり昔から漆を使えば目立つという事が周知されており、だから基本的に完品よりも格下の道具というランク付けがされていた。そこから敢えて目立たせるという思考が生まれたりすることはない。目立たせるための直しという発想は、透明な合成接着剤で付けると跡が見えないという事を知っている人間から出てくるものだ。
では、金継ぎに金蒔絵が導入されたのは、なぜか。金はあくまでも黒ずみを隠すための「虚飾」「見栄え」としての遊び心に過ぎない。
茶を飲む時に使える耐水耐熱性の修理剤として漆が用いられ、最初は修理箇所を気にしながら使っていたものが、江戸の文化が隆盛になる辺りで天才的な発想をする人間あるいは洒落た感覚の粋な人間が金属粉で黒ずみを被覆する蒔絵の手法を導入したのだろう(ちなみに江戸時代に金継ぎという言葉はまだ生まれていなかったようなので、金継ぎというジャンルとして成立したのはもっと後世の可能性もある)。つまり金色は目立たせるためではなく上手い隠し方が本意だと言って良い。そして、虚飾であった金属色には、後に「景色」という役割(約束事)が与えられたことで、やっと道具としての居場所を確保できるようになった。たぶんそんな経緯で金継ぎは認知されたのではないかと思う。
だから、金継ぎされた物を見ていろいろと思考を巡らせるのは大いに結構だが、金継ぎを過度な救いを求める象徴としたり、救われるために平然と物を壊して金色に塗り直すような洗脳装置として使うことは、金継ぎに対する侮辱というか申し訳ないことをしているのではないかと個人的には思っている。
金継ぎ哲学の浅さに嫌気がさすという話
No.
110
:
Posted at
2025年02月26日(水)
#徒然なる日記 #金継ぎ #陶磁器修理
金継ぎパズルが話題らしい。最初に器がバラバラと崩れるビジュアルから始まるので、器を割ることから始めるのは金継ぎの精神に反すると批判する人もいるらしく、それに対し、ゲーム製作者(ポーランドの人)は金継ぎの哲学を理解していると製作意図のコメントを紹介したりと、相変わらず騒ぐの好きだねという感じで見ている。
製作者のコメント(日本語訳)を読んでみたが、あぁこの人も金継ぎ神話に騙されたのかと少し気の毒には感じた。
誰が金継ぎの哲学とやらを言い始めたのかは知らないが、そんなのが出てきたのはSDGsを企業やメディアが盛り上げたりコロナ禍でインドア趣味に活路を見出すビジネスが増えた辺りの何処かだと思う。店を始めた20年前にはそんな哲学の話など微塵もなかったし、金継ぎの店を始めますと陶器店を回っても1店を除いては話も上の空で聞いているのか聞いていないのか分からない状態。地方新聞や地方ラジオで取り上げられても問合せは数件で、「器にこんなことをされたら困る」と電話口で怒られたこともある。それくらい日本人ですら金継ぎは関心が薄く、どういうものかも分かっていない状態が普通だった。金継ぎ品を見て哲学性を感じる人は皆無と言ってもよく、骨董屋ですら直してあるから値下げしたと言って売るようなものが金継ぎ品だった。
2020年辺りを境に金継ぎが急に世間の注目を集めるようになったが、漆を使えば実用レベルで陶器を使い続けることが出来るという先達の発見への尊敬は極薄だったと思う。少なくともツイッターを見ていた限りにおいて、漆芸にかかわる人たちでも金継ぎには「漆芸に関心を持ってもらえる最初のツールにはなる」という見解が殆どで、根源的な直しについての話をしている人は居なかったのではないかという感じがしている。
ところが、金継ぎ哲学という尾ビレが付いた途端、あれよあれよという間に金継ぎはサスティナブルだ、SDGsだ、日本人の精神だ、伝統的思想だ、ということになった。ビートルズではないが一夜にしてスターダムに上った感がある。
金継ぎ哲学はあまりにも修理直後の派手な見てくれだけに執着していて、いかにも最近知った人が考えた感が拭えない。使い続けるうちに金が剥げてくることや、漆が劣化することついては一切触れない。金継ぎに哲学を加えて物語性を出すことでビジネスにしたアイディアには敬服するが、個人的には金継ぎ哲学とやらは金継ぎをビジネスとして成立させるために必要だったというだけで、別に日本人の精神だとは思わない。
金継ぎにあるのは哲学というよりも、良くも悪くも「日本人の貧乏根性」ではないかと思う。良く言えばワンガリマータイ的な「勿体ない」とか茶の湯的には「わび」ということになるわけだが、要するに「明日の事なんて分からんけど、出来るだけのことはやっとくかな、知らんけど。」という程度がせいぜい金継ぎの持てる精一杯じゃないかと私は思っている。それ以上の、言葉を費やした美学や哲学は金継ぎの蒔絵の金と同じで加飾に過ぎない。多少の洒落っ気や味にはなるが別に崇高な精神性ではない。というか、そこを抑えておかないと、今ですら金継ぎは十分に歴史改ざんの憂き目に逢ったり、セラピーというお題目のもとに金継ぎという名で大量消費が行われているというのに、さらに金継ぎはどんどん取り返しがつかないレベルで曲解された挙げ句に見捨てられて終わってしまうような感じがしている。
誰かが考えた話に感動するのは自由だが、それは金継ぎのコンセプトとして組み込まれていたわけではなく、ビジネスの中から生まれたファンタジーだというのを理解して感動しないといけない。
金継ぎの認識が変わっていくのも時の流れだと言って切る捨てるのは簡単だが、出来ればもっと自然に見て、感じて、修理品と地味に長く付き合っていくようなものが金継ぎてあってほしいという一縷の望みを持っている。
金継ぎパズルが話題らしい。最初に器がバラバラと崩れるビジュアルから始まるので、器を割ることから始めるのは金継ぎの精神に反すると批判する人もいるらしく、それに対し、ゲーム製作者(ポーランドの人)は金継ぎの哲学を理解していると製作意図のコメントを紹介したりと、相変わらず騒ぐの好きだねという感じで見ている。
製作者のコメント(日本語訳)を読んでみたが、あぁこの人も金継ぎ神話に騙されたのかと少し気の毒には感じた。
誰が金継ぎの哲学とやらを言い始めたのかは知らないが、そんなのが出てきたのはSDGsを企業やメディアが盛り上げたりコロナ禍でインドア趣味に活路を見出すビジネスが増えた辺りの何処かだと思う。店を始めた20年前にはそんな哲学の話など微塵もなかったし、金継ぎの店を始めますと陶器店を回っても1店を除いては話も上の空で聞いているのか聞いていないのか分からない状態。地方新聞や地方ラジオで取り上げられても問合せは数件で、「器にこんなことをされたら困る」と電話口で怒られたこともある。それくらい日本人ですら金継ぎは関心が薄く、どういうものかも分かっていない状態が普通だった。金継ぎ品を見て哲学性を感じる人は皆無と言ってもよく、骨董屋ですら直してあるから値下げしたと言って売るようなものが金継ぎ品だった。
2020年辺りを境に金継ぎが急に世間の注目を集めるようになったが、漆を使えば実用レベルで陶器を使い続けることが出来るという先達の発見への尊敬は極薄だったと思う。少なくともツイッターを見ていた限りにおいて、漆芸にかかわる人たちでも金継ぎには「漆芸に関心を持ってもらえる最初のツールにはなる」という見解が殆どで、根源的な直しについての話をしている人は居なかったのではないかという感じがしている。
ところが、金継ぎ哲学という尾ビレが付いた途端、あれよあれよという間に金継ぎはサスティナブルだ、SDGsだ、日本人の精神だ、伝統的思想だ、ということになった。ビートルズではないが一夜にしてスターダムに上った感がある。
金継ぎ哲学はあまりにも修理直後の派手な見てくれだけに執着していて、いかにも最近知った人が考えた感が拭えない。使い続けるうちに金が剥げてくることや、漆が劣化することついては一切触れない。金継ぎに哲学を加えて物語性を出すことでビジネスにしたアイディアには敬服するが、個人的には金継ぎ哲学とやらは金継ぎをビジネスとして成立させるために必要だったというだけで、別に日本人の精神だとは思わない。
金継ぎにあるのは哲学というよりも、良くも悪くも「日本人の貧乏根性」ではないかと思う。良く言えばワンガリマータイ的な「勿体ない」とか茶の湯的には「わび」ということになるわけだが、要するに「明日の事なんて分からんけど、出来るだけのことはやっとくかな、知らんけど。」という程度がせいぜい金継ぎの持てる精一杯じゃないかと私は思っている。それ以上の、言葉を費やした美学や哲学は金継ぎの蒔絵の金と同じで加飾に過ぎない。多少の洒落っ気や味にはなるが別に崇高な精神性ではない。というか、そこを抑えておかないと、今ですら金継ぎは十分に歴史改ざんの憂き目に逢ったり、セラピーというお題目のもとに金継ぎという名で大量消費が行われているというのに、さらに金継ぎはどんどん取り返しがつかないレベルで曲解された挙げ句に見捨てられて終わってしまうような感じがしている。
誰かが考えた話に感動するのは自由だが、それは金継ぎのコンセプトとして組み込まれていたわけではなく、ビジネスの中から生まれたファンタジーだというのを理解して感動しないといけない。
金継ぎの認識が変わっていくのも時の流れだと言って切る捨てるのは簡単だが、出来ればもっと自然に見て、感じて、修理品と地味に長く付き合っていくようなものが金継ぎてあってほしいという一縷の望みを持っている。
飛蚊症がひどいという話
No.
109
:
Posted at
2025年02月08日(土)
#徒然なる日記
元々、飛蚊症になりやすいというか飛蚊が気になるタイプの人間ではあるので、以前に両目の散瞳検査をして一時的に眼鏡をしても視力が0.01程度になった時に日本の街は文字や記号で人の行動を示唆していることに気付いたという話は書いたはず(もしかしたら消えてしまった旧館の方だったかもしれない)。
その後も、ちょいちょい飛蚊症になってはいても翌日には消えるのであまり気にしなかったのだが、今年に入ってから眼鏡を拭いても何となく汚れが気になるなぁと思っていたら、少し前から左目にかなりデカい飛蚊が出て何日か待っても全く消えず。普通、飛蚊は視界の中をウロウロと動き回る小さい紐みたいな感じなのだが、今回は綿埃みたいに塊になっていて、視界中央に位置して画像がモヤっとしてしまいパソコンの画面や漆の細い線がよく見えない。たまたま顕微鏡を見た時にレンズを拭いても消えない皮膚組織の欠片みたいなものがずっと見えるので、あぁこれが眼球の中にあるから飛蚊が酷いのかもしれないと気付き、仕方がないので眼科へ行くことにした。
視力検査や散瞳検査をして(今の散瞳検査は目薬を差して瞳孔を開いた後に、ガラスのレンズを眼球に押し当てず高解像度のデジタル写真で解析できるのね。ガラスを眼球に押し当てられるの苦手だったから良かったよ。技術の進歩って凄いわね。)、医者曰く、老化で硝子体が縮小してきていて、その影響で焦点近くに黒い影が出ているからこれが原因だろうと。老化による硝子体の縮小は自然な事で、もう少し縮んだら焦点から影が移動するので気にならなくなるだろうという話。対処法は無いので、一応、1か月後に再検査するということで終了。
まぁ原因が分かったのは良いのだが、毎日、起きると目の前に黒いのがフラフラ居て、視界を遮っているのでテンションダダ下がりである。私は幽霊が見えたりする人間ではないのだが、たぶん幽霊が見えるっていうのはこういう感覚なのかもしれないと思ったりする。他人に説明は出来ても見せられないわけだからね。
完全に視界が見えないわけではなく、左目だけモヤっとしていて右目の視界は良好なので、脳で像を結実させれば何とか普段の生活は出来るが、一点を集中して見なければいけない状況(仕事の時とか万年筆で文字を書く時とか)だと、これが意外とストレスが溜まる。右目だけで見ればはっきりとした視界にはなるが片目なので距離感が掴めない。器の内側に線を引くのがとにかく難しい。器の内側に線を引く時のキモは距離感の認識なのかと初めて知った。
それにしても、いつになったらこの綿埃野郎は気にならなくなるのか。ギックリ腰とか痛風とか飛蚊症とか今年は結構、体にくるガタの程度が大きい。年寄りの体の話は詰まらないのが相場なので余り書きたくないわけだが、視界に関してはストレス大きいので言わずにいられなかった。ごめんなさい。
元々、飛蚊症になりやすいというか飛蚊が気になるタイプの人間ではあるので、以前に両目の散瞳検査をして一時的に眼鏡をしても視力が0.01程度になった時に日本の街は文字や記号で人の行動を示唆していることに気付いたという話は書いたはず(もしかしたら消えてしまった旧館の方だったかもしれない)。
その後も、ちょいちょい飛蚊症になってはいても翌日には消えるのであまり気にしなかったのだが、今年に入ってから眼鏡を拭いても何となく汚れが気になるなぁと思っていたら、少し前から左目にかなりデカい飛蚊が出て何日か待っても全く消えず。普通、飛蚊は視界の中をウロウロと動き回る小さい紐みたいな感じなのだが、今回は綿埃みたいに塊になっていて、視界中央に位置して画像がモヤっとしてしまいパソコンの画面や漆の細い線がよく見えない。たまたま顕微鏡を見た時にレンズを拭いても消えない皮膚組織の欠片みたいなものがずっと見えるので、あぁこれが眼球の中にあるから飛蚊が酷いのかもしれないと気付き、仕方がないので眼科へ行くことにした。
視力検査や散瞳検査をして(今の散瞳検査は目薬を差して瞳孔を開いた後に、ガラスのレンズを眼球に押し当てず高解像度のデジタル写真で解析できるのね。ガラスを眼球に押し当てられるの苦手だったから良かったよ。技術の進歩って凄いわね。)、医者曰く、老化で硝子体が縮小してきていて、その影響で焦点近くに黒い影が出ているからこれが原因だろうと。老化による硝子体の縮小は自然な事で、もう少し縮んだら焦点から影が移動するので気にならなくなるだろうという話。対処法は無いので、一応、1か月後に再検査するということで終了。
まぁ原因が分かったのは良いのだが、毎日、起きると目の前に黒いのがフラフラ居て、視界を遮っているのでテンションダダ下がりである。私は幽霊が見えたりする人間ではないのだが、たぶん幽霊が見えるっていうのはこういう感覚なのかもしれないと思ったりする。他人に説明は出来ても見せられないわけだからね。
完全に視界が見えないわけではなく、左目だけモヤっとしていて右目の視界は良好なので、脳で像を結実させれば何とか普段の生活は出来るが、一点を集中して見なければいけない状況(仕事の時とか万年筆で文字を書く時とか)だと、これが意外とストレスが溜まる。右目だけで見ればはっきりとした視界にはなるが片目なので距離感が掴めない。器の内側に線を引くのがとにかく難しい。器の内側に線を引く時のキモは距離感の認識なのかと初めて知った。
それにしても、いつになったらこの綿埃野郎は気にならなくなるのか。ギックリ腰とか痛風とか飛蚊症とか今年は結構、体にくるガタの程度が大きい。年寄りの体の話は詰まらないのが相場なので余り書きたくないわけだが、視界に関してはストレス大きいので言わずにいられなかった。ごめんなさい。