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No.119, No.118, No.117, No.116, No.115, No.1146件]

金継ぎの料金を値上げすることにした話

No. 119 :
#金継ぎ #徒然なる日記

私が金継ぎ師や金継ぎ作家ではなく金継ぎ修理屋を自認自称しているのは、陶磁器の修理として金継ぎを捉えているからだ。
そして修理には、それに応じた妥当性というものが必要だろうと考えている。

修理の値段はその中でも最初に苦慮した事で、私の金継ぎ修理はあくまでも美術工芸品ではなく庶民的に器を使い続ける事を目的としているから、使い続けられる「ギリギリ妥当なお足を頂く」ために分かりやすさを優先し、それまで通例とされてきた言い値による料金ではなく、計算方法を公開し価格を提示しするという方法を考えた。それが、基本料2000円と、技術料の接着1cmあたり100円。欠損1cm角あたり400円だ。当時は地元の画材屋から購入していた金粉が1gで1万円位だったから、修理に使用する金粉の標準量を0.01gとすると、まぁ妥当ではないかという判断だった。

しかし、昨今の金の未曾有の高騰により、現在の金粉はネット店の直販でも1gで35000円はする。明らかに原価割れだ。
それでも、食費を削りエンゲル係数の爆上がりを実感しながら、庶民的な修理感覚としてその値段を維持してきたが流石に堪えられなくなった。
現状の金の高騰を鑑みれば、料金の値上げは3倍を超えるのが妥当なのは分かっているが、それでは庶民的な修理感覚を大きく逸脱してしまう。
なので、4月から頑張って頑張って頑張って金継ぎの技術料は、接着1cmあたり200円。欠損1cm角あたり700円にした(本当は800円にしたい)。
少なくとも私にとって庶民感覚の修理はここが限界だ。これ以上なら修理を頼むことはしないと思う。

焼継ぎは、修理の値段が新しい器を買う値段を上回ったことで絶滅する道を辿った。
本漆と本金を使った金継ぎも、いずれは焼継ぎと似たような衰退の道を辿るとは思う。庶民感覚の金継ぎは消えると思うが、ただし金継ぎそのものが完全に消えるかというと、たぶんそれはない。金継ぎは本来、武家や公家、豪商などが持っていた数百万円、数千万円を下らない(数億円クラスもあった)という茶器に対して行われていたもので、言い換えればそういう額の売買が出来る人間のためのものだった。そういう世界線では金継ぎは廃れることはないだろう。
カネは取れるところからはしっかり取るというのはビジネスとしては正しい。ただ、私はそれに付き合うつもりはない。あくまでも庶民感覚で可能な最大限の金継ぎを模索するだけだ。

『The more you give Babe, the less you lose, yeah
運が悪けりゃ死ぬだけさ
死ぬだけさ』

金継ぎ修理屋を始めた時に歌い続けた「男達のメロディー」は、今も心の真ん中にある。

〔 1159文字 〕 編集

#金継ぎ #どうでもいい思い付き #徒然なる日記

金継ぎは侘び寂びなのか?という疑問に始まり、直しの用語の変遷などを調べていくうちに日本人の器物直しの歴史が見えてくると、そろそろ「金継ぎは馬蝗絆が~」の嘘は真面目に止めておかないとアカンな、と思い始め、金継ぎの歴史を「案外 書かれない金継ぎの話」で形にしておくことにした。

金継ぎの歴史1 室町以前
金継ぎの歴史2 茶人と繕い
金継ぎの歴史3 繕いの変化
金継ぎの歴史4 名称の変化
金継ぎの歴史5 現代史

で、書き終わったのだが、全5章はかなり長くて読むの大変だから短めに説明できないものかと考えていて、AIに読ませて本の帯文みたいなの書かせてみたらどうかと気付く。「5つのブログを読んで、仮にこれが書籍だとしたら、どんな帯文を作りますか?」と同じ質問を6つのAIにしてみた。少し誤読してそうなAIもいるが、概ね良さげな感じの推薦文を書いてくれて面白かったので紹介しようと思う。AIの帯文を見て、興味が沸いたら本編も読んでみてください。


その金継ぎ観、近代の創作かもしれない。
侘び・癒し・哲学、語られすぎた物語を、史料から静かにほどく。
縄文から現代まで――
史料と実例でたどる、日本の〈繕い〉文化史。【 ChatGPT 】


金継ぎへのイメージを刷新し、本質を突くスタイル
「金継ぎ」という言葉は、昭和の発明だった。
縄文の漆直しから、江戸の「焼継ぎ」ブーム、そして世界が熱狂する「KINTSUGI」へ。
誰もが知る「日本の伝統」の、誰も知らなかった真実。
文献に埋もれた「繕い」の記録を掘り起こし、日本人の美意識の変遷を辿る極上の文化史。【 Gemini 】


きれいごと抜きで語る、金継ぎのリアルな歴史。
そのひび割れは、いつから「美」になったのか。
SNSで語られない、金継ぎと焼継ぎのほんとうの話。
美談でもスピリチュアルでもない、実務としての金継ぎ史入門。【 Perplextiy 】


金継ぎブームの今だからこそ読むべき一冊。
史料に基づく緻密な検証が、私たちの思い込みを次々と覆していく。
「侘び」「禅」「サスティナブル」――
時代ごとに変容する金継ぎの意味を追い、日本人と器の関係史を浮き彫りにする、驚きと発見に満ちた文化史。
「あなたの知っている金継ぎの歴史は、ほとんどが創作かもしれません」【 Claude 】


金継ぎは侘び寂びの象徴? ――それは、昭和に生まれた幻想だった。
千利休も使わなかった“金”。“金継ぎ”という言葉が生まれたのは、わずか100年前――
史料で読み解く、本当の金継ぎ史。
ロマンチックなイメージを、丁寧に剥がす。ワークショップに行く前に、ぜひ読んでほしい一冊。
あなたの金継ぎ観が、180度変わる。【 Grok 】


あなたの知っている金継ぎは、金継ぎではない。
昭和に生まれた新しい言葉が、いつしか古典の顔をして語られてきた。
その誤解をほどき、金継ぎの歴史をゼロから組み直す。
言葉でつなぐのは文化の記憶。
忘れられた修理の名と、移り変わる価値観をたどる、金継ぎの静かな歴史散歩。【 Copilot 】

〔 1356文字 〕 編集

#金継ぎ #陶磁器修理 #徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

金継ぎは果たして侘び寂びなのかという事に端を発し、調べを続けていたら必然的に金継ぎの歴史をきちんと抑える必要があるだろうということになる。

よく言われているのは、侘び茶の発生と金継ぎは同時期というもの(この説が急に拡大したのはコロナ禍だが)。しかし「侘び茶」とは本来、真の茶(唐物舶来の高価な道具をしつらえた茶の湯)に対し、草の茶(和漢混在の最小限の道具で嗜む事のできる茶)を行うために生まれた解釈であり、侘びとは端的に言えば財力が伴わず不足しているという意味を持つ。茶の湯のために作ったわけではない高麗雑器や、農家の種壺の和陶器を見立てとして茶の湯に用いるのは、そういった草の茶と侘びの約束事の理解があってのことだ。
名物を有し真の茶を行う「名人」、茶で身を立てる「数奇者」、名物は持たないが茶を嗜みたいと切磋する人が「侘び数奇」、という区分は利休の頃から有り、侘び数奇でも茶を嗜むのが「侘び茶」ということだから、そこに直しとはいえ金色の加飾が入る余地は本来無いわけだ。
要するに、金継ぎというのは侘び茶が持つ本来の様式とは相容れない関係なので、侘び茶と金継ぎが同時期に発生するとは考えにくい。

という前提はあるにせよ、取り敢えず利休が存命中に行ったり参加した記録となる「茶会記」を当たることから始めてみた。
すると、「ツクロヒ」や「色ウルシ似ツクロヒ」という言葉は複数箇所に登場するが、金属製具を意味する「金(カネ)」として用いられることはあってもツクロイに付属して金という文字が出てくることがない。
金継ぎが用いられる前は金繕いという言葉が使われていたというのは、この仕事を始める前に調べていて分かっていたので、てっきり金繕いという言葉が出てくるかもしれないと思っていたが、そう簡単ではないらしい。
ということで、国立国会図書館デジタルコレクションのサイトを使い片っ端からそれらしい単語を見つけていくことになる。

これがまぁ簡単な事ではないのだが、それを話すと長くなるため、その辺りの右往左往はツイッター(エックス)を見て楽しんで頂く事として、その結果分かった事を書く。
器の直しに相当すると思われる用語が最初に登場した西暦と、出版物は以下の通り。なお、室町、江戸については明治以降に出た出版物や全集を用いている場合、併記されている元本の発行年を調べたもの、茶会記については茶会開催年で記載している。

<金継ぎ名称変遷>

【室町(桃山)】
1555 ツクロイ(松屋会記)
1568 色うるしにてつくろヰ(天王寺屋会記)

【江戸】
1690 うるしを以てぬりつぎて(人倫訓蒙図 継物師)
1724 黒ノ繕ヒ、金繕(槐記)
1727 金粉鎹ツクロイ(槐記)
1728 粉繕ヒ鎹アリ(槐記)
1837 漆を以て之補、金粉を粘す(守貞謾稿)
1864 粉つくろい(不二詣 織部焼 其角)

【明治】
1893 イレバ(隠語通言略解)
1903 ふんづくろい(声色大会 新旧演劇)

【大正】
1921 金粉繕い、金粉継合せ(大正名器鑑)

【昭和】
1931 金繕(日本古美術案内 上巻)
1931 金繕ひ(茶道月報 251)
1931 金粉継ギ(故古谷辰四郎尋思録)
1936 金漆繕い(茶道月報 331)
1937 金継ぎ(私のこのごろ)
1938 金接ぎ(日本医事新報 816)

修理箇所を金色にした事が明確に記載されるのは江戸中期の1700年以降である。
ただし、槐記にある「金繕」は、黒ノ繕に対して金ノ繕と書かないため個人的には「カネツクロイ」と呼んで「鎹(かすがい)」を表しているのではないかと推測している。というのも、槐記の場合のみ繕いは竹花入の説明に記載がされている。竹花入は経年で亀裂が広がるため漆の直しだけでは長期性が担保されない。そのため鎹を打って変形を抑制している。つまり「黒ノ繕」が漆であり「金繕」は鎹を表すと考える方が自然だと思う。
従って、明らかに金継ぎに相当するのは「金粉鎹ツクロイ」または「粉繕ヒ鎹アリ」ということになる。
明治に入ると「フンツクロイ」は金蒔きをした漆の繕いとして陶器辞典にも登場するので、槐記の「粉繕ヒ」は十中八九、金継ぎを表す用語だと考えられる。

これを調べるまで「金継ぎ」という言葉は明治の近代数寄者または千家の復興によって広まったのではないかと予想していたが、昭和初期になって登場したのは意外だった。そして金継ぎ以前には金繕いが用いられていたという話だったが、江戸末期から明治は「粉ツクロイ」が主流で、大正に「金粉繕い」という用語が登場するが、「金繕い」(たぶん金粉繕いの省略形)としての登場は昭和だったりする。
あくまでも国立国会図書館のデジタル化した資料で分かる範囲なので、確実とは言えないかもしれないが、概ね当たらずとも遠からずだと思う。

現在が2025年なので、それでも「金継ぎ」という言葉は100年弱は使われているわけだから長いと言えば長いけれど、1700年頃から始まった金加飾の歴史を考えると1930年頃に生まれた言葉は意外なほど短いとも言える。昭和生まれの自分からすれば、同じ時代に出来た言葉なのかよという感じがする。
また「金継ぎ」を用いる際に興味深いのは、例えとして用いられる事が多いという特徴がある。「金繕い」という言葉は明らかに茶事関連または骨董専門書で登場することが殆どだが、「金継ぎ」の場合は「金継ぎのような」として身体の具合など現状の言い換えに用いられている。何かの例えとして用いられるということは、書き手と読み手の双方に用語の理解があるという前提で使われるわけだから、金継ぎという言葉の一般への拡散は意外なほど早かったのではないかと思われる。
「継ぎ」という言葉は、ツギハギ(継ぎ接ぎ)という単語からも分かるように本来は異種の物の接合に使用される。これは茶器の直しも同様で、金継ぎが登場するまで異種物を用いた直しには「呼継ぎ」、同種物を用いた直しには「繕い」が割と厳密に用いられている。
本来の用い方のままであれば、金繕いで令和に定着する可能性もあったのに、何故、金継ぎと言い直されるようになったのか。理由は不明だが、1930年以降に何か原因があり、それが拡散加速に一役買っていたのかもしれない。(金繕いは、令和でも使われているので正確には併用されているわけだが、あまり多くはない。そして金継ぎ、金繕い意外の言葉は死語になっている。)

ちなみに、金継ぎが「ふんつくろい」と呼ばれていた期間は意外に長い(江戸中後期~昭和)が、江戸末期に登場し明治に隆盛を極める事となる「焼継ぎ」もまた「ふんつくろい」と呼ばれているため、この辺りの見極めは非常に難しい。明治、大正は概ね陶磁器の修理全般を「ふんつくろい」という言葉で認識していたと思われる。
なお、焼継ぎについては、いろいろと興味深い事が他にも結構たくさん分かったので、それについてはまた別な機会にでも書こうと思う。

〔 2942文字 〕 編集

#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

侘び寂びはコミュニテFMの出演のために調べていたわけではないのだが、たまたま話の流れで考えていた事を喋ることになり結果的にラジオが先出しになった。ミヤラジ では急に話すことになったので纏まりに欠けていた感じがするから、改めてブログに整理して書いておこうと思う。

まず侘び茶で出てくる『侘び寂び』とは何なのか。パーソナリティ鵜飼さんも、侘び寂びはふわっとしたものとしか考えてなかったので、侘びと寂びの違いについて考えていなかったとの事。恐らく江戸時代以降の日本人は同じ認識だろうし、私自身も調べる前は大した違いを認識していなかったので、明確に言葉にすることは難しいと思う。
しかし、『茶話指月集』『長闇堂記』『山上宗二記』『松屋会記』などの利休に関する江戸時代の書物(実際には弟子や孫が語るという感じなのだが、利休は不立文字(本当の事は文字には出来ないという事。人が確認した時点で粒子の挙動は変わってしまうという量子力学に通じる)を徹底していたので又聞きが主体になってしまうのは仕方がない)を読んでみると、そこには明確な違いを読み取ることが出来る。

「侘び寂び」と一括りの単語として用いることが多いので、侘びが先、寂びが後という感じがするが、実際のところは「寂び」が先行する。

「寂び」とは、自然の中で偶然に生じた実景から得られるエモーショナルな感覚の事を言う。
「寂れる」という言葉からも分かるように元来は物事が自分の予想する方へ向かわないネガティブな事象に対する用語だが、それを「無情で趣深い」とポジティブに捉えたのが、藤原俊成、藤原定家など平安時代の貴族である。そのルーツとして紹介されるのが
「見渡せば 花も紅葉も無かりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(周りに綺麗だなぁと思う物が何も無い 浜に粗末な小屋があるだけの秋の夕暮れだよ)」
という和歌。今の日本人で言えば、演歌を聞いた時の感覚に近いのではないかと思う。
ちなみに「寂び」と名詞で使用するのは江戸中期の松尾芭蕉などからで、それまでは寂びた情景という使い方は有るが寂びという独立した感性ではなかったらしい。

「侘び」というのは、寂びた情景を自分の周りに積極的に構築しようとする能動的事象を伴った感性を言う。
侘びもまた平安時代には生まれていて、元来は、自分の思い通りにならない事を悲しむネガティブな用語だ。万葉集には男女が会えない事の悲しみとして侘びは多く登場する。柿本人麻呂の和歌
「草枕 旅にしあれば侘びしくも 恋しきものか妹を思わねば(旅の途中で悲しくなってしまったよ、会えない恋人の事を思い出したものだから)」
は、侘びをよく表すとして紹介される。万葉集は益荒男振り手弱女振りの世界だから愛しい者が居ない寂しさのストレートな物言いで分かりやすい。
そして、この会えない時間、つまり大切なものが物理的に存在していないという事をポジティブに捉えてみようとしたのが茶の湯における「侘び」だ。何かが足りないという点において侘びは寂びと共通するが、侘びの場合は、寂びの情景を自らの周りに構築し続けるという積極性が加わり、自らもそうした寂びた自然と共通であるという認識を必要とする。それを実践したのが「侘び茶」であり、そのための下地となる思想が「禅の教え」という哲学だ。なので侘び茶には「茶禅一味(茶を飲むことと禅の修行は同じである)」という言葉を用いる。

さて、侘び茶の成立に代表される人物として登場するのが「村田珠光(むらたじゅこう)」「武野紹鴎(たけのじょうおう)」「千利休(せんのりきゅう)」の3人である。
よく見る解説は、銀閣寺で有名な8代将軍の足利義政によって見出され、「和漢のさかいを紛らかす(和漢折衷)」という侘び茶の元を作ったのが村田珠光。その侘び茶に用いる道具を工夫し「侘び数奇」として進化させたのが武野紹鴎。それらを整理して完成させたのが千利休。という順番。

とても分かりやすい並びになっていると思うが、そうした解説を見比べていて、ある時「あぁ、そういうことか」と気付いたのが、これって現代のスマホの成立過程とよく似ているという事。現代日本人の多くにはしっくりとくる例えではないかと思っている。
室町時代中期における茶の湯は、唐(中国)の手順や道具を用いており、それを理解することは難解であり、唐物(道具)は高価で貴重だった。だから茶の湯は貴族や将軍といった特権階級だけが扱える代物だった。

この状況を例えば、こう考えてみる。

外国からコンピュータというものが日本にやってきた。当時のコンピュータは非常に大型で取り回しが難しく高額だった。何より操作はすべて外国語を正確に記述できないといけない。よほど頭の良い人でなければ使えない。そこで、もう少し日本人が使いやすく出来ないものかと足利義政は考えた。
一方、村田珠光という人間は予てから外国製コンピュータに国産OSを乗せて動かすことが出来ないかと密かに考えていた。
その2つの考えは、偶然にも能阿弥という足利義政の配下の人間によって取り持たれることとなる。
謁見することとなった村田珠光は、足利義政にこう説明する「このコンピュータに禅言語を使った『侘び』というカーネル(OSの核となるプログラム)を用いた国産OSを入れる事が出来ます。表記は日本語化させる(和漢のさかいを紛らかす)から今までよりもずっと分かりやすく、多くの人が使う事が出来ます。私が国産OSを開発してみせましょう。」と。
こうして日本初の国産『侘びOS』を乗せたパーソナルコンピュータ(四畳半の茶室)が誕生する。

『侘びOS』は日本人に最適化したOSで、非常に分かりやすく動作した。しかし、OSは日本語化しているが、使用するアプリケーション(茶道具)の多くが日本語に対応していなかった。OSはよく出来ているが、まだまだアプリケーション開発のノウハウやプログラマーが不足していた。
アプリケーションも自分たちで作れればもっと使いやすいだろうと考える『侘びOS』愛用者に武野紹鴎という人がいた。そこで武野紹鴎は、各地を周りアプリケーションになりそうなものを買い集め、組み合わせていった。
やがて国産OS『侘びOS』で動作するアプリケーションが徐々に生まれていくことになる。

武野紹鴎のこうした動きと時を同じくして、村田珠光の『侘びOS』を愛用し、茶の湯に参入を試みていた若いエンジニアであり起業家に千利休が居た。
彼は思っていた。茶の湯は面白い。だが、この面白さを理解するには、まだまだパソコンは大きくて専門的過ぎる。もっと家電のような感覚で使えるよう改良が必要なはずだ。そのためには『侘びOS』の小型化が必要に違いない。村田珠光のカーネルを利用して、もっと小型に特化したOSを作れないだろうか。
そして、千利休は侘びOSを小型化した『侘び茶OS』を作り上げ、侘び茶OSを動かすためのデバイス(三畳、二畳、一畳の茶室)を構築し、更に侘び茶OSに合わせた国産アプリケーションの小型化や『楽(当時は楽という名称はなく今焼と言った)』『竹花入』などの新種開発にも着手し、アプリケーションの手順書も考えた。

この開発によって、茶の湯人口は一気に増大し、優秀なプログラマーも生まれていく事となる。

しかし、一つだけ不幸だったことがある。それは千利休が優秀過ぎたという事。
そのため、利休以後に生まれたプログラマーは、侘び茶OSを超えるOSを開発することが出来ず、アプリケーション開発にのみ専念した。
しかも、アプリケーションの乱立によってバッティングが発生したり、中にはOSに不正な書き込みをしてデバイスを起動不可能にするものも出てきてしまった。
それが江戸時代になって拡大する流派乱立、茶の湯の遊芸化だ。当時の出版本には、侘び茶OSの仕様を守ってアプリケーションは開発すべきという忠告も見られるが、そうそう上手くいかないのは人の世の常である。侘び茶OSを開発した千利休の流れを持つ流派もまた、アプリケーションを書き換える中で当初の目的を薄めていく部分も少なくない。
ちなみに、金継ぎ(漆直し金蒔絵)という直しは、こうした体流の中の末席で生まれたものではないかと個人的には考えている。

今後、新たな国産OSは生まれるのか、それともアプリケーションが少しずつOSを書き換えていくことになるのか。
なかなかに興味深い事ではないかと思っている。

〔 3520文字 〕 編集

#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ

noteの金継ぎ解説を一区切り付けたので、その後の暇つぶしで侘び寂びについて掘っている。
そこで気付いたのは、侘び茶が当時の外国被れに対するカウンターカルチャーだったのは間違いないとして、その起こりとなった精神的な部分は平安時代の国風文化なんだろうなぁという事。
無論、国風文化は貴族の文化だから、市井の民の暮らしぶりとは真逆な優雅さはあるわけだが、古文書に残る平安の言葉の概念と見比べると、思想的にはとてもよく似ている。国風文化から生まれた自然観に幾ばくかの切なさを含め、それを美と判断するセンスを室町後期では「寂びる」と表現したらしいが、敢えて「佗び(侘び)茶」という用語を選んだ辺りに、これはリスペクトであって真似ではないからな、そこんとこヨロシクという茶人の気骨を感じたりはする。だから寂び茶ではないのだろう。

ちなみに現在、寂びは時間的な物憂げにある美、侘びは物質的な物憂げにある美とAIは解説したりするのだが、言語の変遷から定義すると、自然の中に発生する物憂げを見付ける審美眼が『寂び』、自らの生活スタイル(=人生)で物憂げを肯定的に実践するのが『侘び』なんだそうな。自分の立ち位置とか心のベクトルが違うというのは意外と認知されていない。

それと、あぁやっぱりそうなのか面白いなぁと思ったのは、侘び茶の考え方は時代によって表現方法の変遷があるということ。根底は同じなのだろうが、茶の真髄に侘び寂びという言葉を象徴的に使用するようになったのは利休死後1世紀の江戸初期(このとき制作された記念創作本が、茶道の話でよく出てくる『南方録』)と、それからずっと後の昭和における国文学研究との関連で登場。第二次世界大戦前は寂びが重要視され、大戦後は侘びが重要視されることとなり、そして、侘び寂びとして周知されたのは戦後って話。それ以外の時代は和敬静寂や簡素、質素などの言葉が多く使われている。和敬静寂は利休が自分から言ったという話になっているらしいから、そのまま和敬静寂を使えば良いような気もするけど、もうちょっとミステリアスでキャッチーな名詞が欲しかったのかね。

それで、ずっと疑問だった、金継ぎは本当に侘び寂び発祥なのか?という点も何となく解決した。
そもそも、利休は秀吉と黄金茶室で喧嘩をしたり、金色を茶室で使う事自体を快く思っていなかったという伝書は多く、金襴の表具は愚か者の目を驚かすだけの痴人脅しとか言っているし、江戸時代に入るまで直しの記述や茶道具は有っても金が蒔かれた様子は無く、直しに「漆を以て之を補う 金粉を粘す(粘りつかせる)」という表現が登場するのは喜田川守貞の著『守貞謾稿 』巻六の焼継ぎの説明中で、守貞漫稿の製作は江戸後期。つまり江戸中期に小規模で行われていた可能性はあるが、記述として残される程度に認知されたのは江戸後期になってからと思われる(ただし金継ぎや金繕いという名称はまだ登場していない)が、どう考えても侘び茶の発生と同時期ほど古くはない。
そこで先の話に出てくる「侘び寂びが茶の理念になるのは昭和まで確定しなかった」のくだり。それで合点が行った。やはり金継ぎは侘び茶と同時に発祥したのではなく、江戸になってから侘び茶が取り込んだのだろうな、と。

ところで、発祥から通底されてきた質素清貧を旨とする佗び茶の世界観に、なぜ贅沢の極みとも言える金や銀を取り入れる事が出来たのか?それには、茶道具に金色が用いられることとなった歴史の転換点が関係するのかもしれない。
ここからは私の想像だが、恐らく小堀遠州の武家茶道『綺麗さび』の思想や、金森宗和を元とする公家茶が、それに大きく関わる。
利休・織部による室町時代の草庵式の佗び茶から、江戸文化(あえて言えば、貴族文化、武家文化、中国文化、南蛮文化など多様な文化の統合体)も取り込むことで考案された書院式の武家茶道が遠州流の綺麗さびだ。織部の侘び茶は堅苦しすぎると言い、佗び茶には無かった「華やかさ」という新たな軸を作り、それを肯定したのが綺麗さび(なお、当時は茶道の象徴的用語ではなく道具に対する形容として用いられており、遠州の象徴として固定されるのは昭和に入ってから)。一方、宗和流の始祖である金森宗和は、京焼の野々村仁清を重用した茶人であり、小堀遠州とも親交を持つ。公家との交友は深く、茶碗にも金彩の模様が用いられるようになった。そして、遠州は徳川将軍家の茶道指南役である。
こうしたネットワークの中から、金粉を粘した直しもまた茶道における寂びに含まれるというお墨付きが広まることとなったのではないかと思う。これを起点として江戸や堺の侘数寄者が直しに金継ぎを導入するようになり、後に千家も金継ぎを認めることとなる。そんな流れがあったのではないだろうか。

金継ぎは侘び寂びではなく、江戸文化を取り込んだ綺麗さびのネットワークを発祥とする、と考えるといろいろと納得もできるような感じがする。

〔 2092文字 〕 編集

文化的充実とは何か、という話

No. 114 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #金継ぎ

note『案外 書かれない金継ぎの話』のネタが切れたので一段落ということにした話を前回書いて、最後のところでChatGPTで見やすい図解を作って差し替えるのはやりたいと言っていたのだが、予想より早く差し替えが完了した。無料だと画像生成は1日3回しかチャレンジが認められていないので、こりゃぁ先は長いだろうと思っていたが、プロンプトの指定をかなり細かくやっておくと大体1~2日、つまり6回あれば概ねこちらの意図を汲み取った事をやってくれるというのが分かり、殆どは6回掛からずに出来たので2週間くらいで元絵は出来上がって、そこからフォトピー で少しフォトレタッチなどでChatGPTの生成画像の不足分を補ったりして、これなら少なくとも手書き絵を貼っておくよりは良かろうというレベルになったのでOKにした。
で、図解の差し替えだけで十分だろうと思っていたのだが、図解に合わせて文章も少し修正が必要だったり、3、4年前の不勉強ゆえに間違えている部分もあったりして、結局、本で言うところの重版みたいな感じで割とあちこち推敲もやった。

改めて自分が書いたnoteを読み直していて思い出したのが、自分が何故、修理することに拘っているのかという原点だった。

店を始めたきっかけは、当時、実用陶磁器の直しをやっている人間が殆ど居なかったからというのは以前に書いた通りなのだが、栃木に帰って陶器の修理屋をやろうと決めた根っこの部分って、そういえば、文化の充実性みたいなものに気付いたからだった。
資本主義において社会の充実は、物質の『量』と『進歩』が最優先される。要するに、物がたくさん有り、そのたくさん有るものが常にブラッシュアップされていく状態を充実と認識する。しかし、本当にそうなのか?充実とは一方向に進むことなのか?その結果、大量生産と大量消費が加速し物を直せなくなっている事にも気付かないのは、むしろ退化ではないのか、と。本来は、作ったら使い続けることが大切で、使い続けるにはメンテナンスが不可欠なわけで、要するに『作る事と直す事』の両立があって物作りはバランスが取れた自然な状態であると言えるのではないだろうか。このバランスが取れていることが文化的充実なのではないかと思ったわけである。
そのためには、修理保証もなく生産され続けている陶磁器の直しの確立が不可欠だ。単に形が整っただけの一過性の作業ではなく、メンテナンスし続けられるだけの理論的で体系的な直しを考えなければいけない。そんな気持ちがあった。

今の金継ぎブームを見ていると、どうも自分とは馴染まないと常々感じていたのだが、その根本原因は、ブームの金継ぎが『一点物』や投機的『アート』という生産方向だけに肥大している(というか、それしか考えていない)からなのだろう。見た目は直しだが、その実は『映え』でしかない。
もっと言ってしまえば、自分なら壊れた器をもっとブラッシュアップできるんだぜとか、何なら器よりも目立ちたいという既存の器に対する無意識な見下しというか、それまで使われてきた器が持つ時間や関係を目新しさだけで蔑ろにしている感じというか、要するに壊れた器をキャンバスや遊具にしか考えていない感じが、どうにもやりきれない。器の色は金のための下地ではなく、世に出せると器の創り手が判断した色の完成形であり、買い手が気に入って選び、使い続けてきたという歴史だ。その部分が完全に抜け落ちて、金色の新しいものを作ることにしか目が向いていない。
文化のバランスとして考えた場合にも、明らかにブームの金継ぎはバランスが悪い。金継ぎという名の消費が進んだだけな気がする。

だが、もう、この流れは私一人が何かを言ったところでどうしようもないと思う。それくらい歪んだ構造の金継ぎっぽいものはメジャーになりすぎた。
だから、私はnoteを書く時、無意識に、ことさら修理に拘ったのだろう。そして、この考え方は今のブームの金継ぎをやっている人間には絶対に届かないとも思う。
それでもかまわぬ。noteの金継ぎ解説は、今のブームのために書いているのではない。ブームが去った後、100年後の修理屋のために書き残しておくことにする。映えは100年以内に詰むと思う。その時、どこかの修理屋がnoteの文章を見つけてくれれば、それが一番良いような気がしている。

〔 1837文字 〕 編集

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