No.120
「金継ぎ」に替わる言葉を探したいという話
No.
120
:
Posted at
2026年04月18日(土)
#金継ぎ #陶磁器修理 #どうでもいい思い付き #徒然なる日記
言葉というのは時代や地域によって変化していくものだという一般常識的な感覚は、もちろん私にもある。
日本で使われる「寿司」という言葉は、アメリカだとカリフォルニアロールのような海苔を内側に入れた巻き寿司の事を意味する。ちなみに日本の巻き寿司を「MAKI」、握り寿司を「NIGIRI」と呼び、それらの総称を「SUSI」と呼ぶわけではなく、あくまで「SUSI」は裏巻きの寿司というグループの名称という使い方だそうだ。
金継ぎもKINTSUGIになった事で、受け取り方が多少は変わってくるだろうという感じはしていたが、金継ぎの場合に問題なのは金色である事以外は日本で行われてきた金継ぎのオリジナリティが壊滅的に無視されている事。無視された上に自己啓発やスピリチュアルでは、器の破壊行為が正当の範疇で行われている。もはや直しですらない単なる営利のための大量消費となっている。
しかも困った事に、日本でも金継ぎをするといえば、そうした消費活動だと考える人間が増えてきているという事実。金継ぎをすると言っている日本人の9割以上は、漆芸の歴史との兼ね合いを微塵も知らない状態ではないかという感じがしている。オリジナルを残しつつ変化している部分があるならまだしも、明らかにオリジナルが消滅し、残骸となりつつある。
これは、自然や他人との関係やバランスを重視する日本に対し、最も優先されるのが個人の幸福であり、そのためには他人を説き伏せることが重要だという国外との世界観の違いによるものだろう。だから、自分と器の距離を考えながら時間を掛けて直す金継ぎと、自らの精神構築のために器を割り、出来るだけ早く組み立てる事を象徴的に捉えるKINTSUGIの違いが生まれることになる。KINTSUGIは金継ぎをリスペクトしていると言う人もいるが、その実は全く逆だったりする。
これまで、金継ぎの歴史を調べてnoteに書いたり、漆芸の歴史から生まれた金継ぎと、現在の商業ベースで広まった金継ぎには凡そ伝統と呼べる接点は無いという事を言ったり書いたりしてきたが、正直、肌感としては完全に手の打ちようのない状態だと思う。もはや日本人が行ってきた金継ぎは濁流による崩壊を起こしてしまっている。
それで考えたのは、所詮、金継ぎは昭和30年代に略称として生まれた若い言葉であり、そろそろ用語として新たなフェーズに移行する時期なのかもしれないという事。
「繕い」が「漆繕い」になり「金粉繕い」から「粉繕い」、「金粉継ぎ」から「金継ぎ」へと呼び名は変化を続けてきた。言葉は変わっても技法や気持ちとして受け継がれたものがあったと思うが、それすら無くなっているとしたら、それはもう別物だ。元来なら別物に対して新たな呼び名を考えるのが筋だと思うが、商業ベースで広まり拡散してしまった今となっては、それは叶わない願いだろう。
ならば、商業ベースの行為に「金継ぎ」という用語はくれてやって、縄文時代から続いた漆直しの源流を持った修理に別な用語を付けたら良いではないのではなかろうか。元来在るものという認識が生じればいいのだから、金継ぎという名称に執着する必要もない。執着しないのは禅の教えでもあるわけだし。
というわけで、そんな意味を表す何か良い言葉は無いかとずっと考えていて、「侘数寄(わびすき)」という茶道用語を見て語呂が似ている
「侘び継ぎ、侘継ぎ(わびつぎ)」
というのはどうだろうと思い付いた。
これならば金色である必要もないし、金色に執着する必要もない。銀でも良いし、漆だけでも良い。人と宅が入っている漢字の並びも良い。勿論、侘茶が持つ自然との接点みたいなものも感じられる、日本に根ざしたイメージが強く感じられそうな気がする、個人的には。
これまでの金継ぎの名称の歴史的文脈から言えば「漆継ぎ(うるしつぎ)」を用いる方が自然ではあるが、漆継ぎはどうにも語呂が悪い。「し」と「つ」が並んでいたり、5音節なのが原因ではないかと思う。
もっと良さげな言葉があれば、また書きたいと思うが、今のところ「侘継ぎ」は自分の中ではかなりしっくりきている。
言葉というのは時代や地域によって変化していくものだという一般常識的な感覚は、もちろん私にもある。
日本で使われる「寿司」という言葉は、アメリカだとカリフォルニアロールのような海苔を内側に入れた巻き寿司の事を意味する。ちなみに日本の巻き寿司を「MAKI」、握り寿司を「NIGIRI」と呼び、それらの総称を「SUSI」と呼ぶわけではなく、あくまで「SUSI」は裏巻きの寿司というグループの名称という使い方だそうだ。
金継ぎもKINTSUGIになった事で、受け取り方が多少は変わってくるだろうという感じはしていたが、金継ぎの場合に問題なのは金色である事以外は日本で行われてきた金継ぎのオリジナリティが壊滅的に無視されている事。無視された上に自己啓発やスピリチュアルでは、器の破壊行為が正当の範疇で行われている。もはや直しですらない単なる営利のための大量消費となっている。
しかも困った事に、日本でも金継ぎをするといえば、そうした消費活動だと考える人間が増えてきているという事実。金継ぎをすると言っている日本人の9割以上は、漆芸の歴史との兼ね合いを微塵も知らない状態ではないかという感じがしている。オリジナルを残しつつ変化している部分があるならまだしも、明らかにオリジナルが消滅し、残骸となりつつある。
これは、自然や他人との関係やバランスを重視する日本に対し、最も優先されるのが個人の幸福であり、そのためには他人を説き伏せることが重要だという国外との世界観の違いによるものだろう。だから、自分と器の距離を考えながら時間を掛けて直す金継ぎと、自らの精神構築のために器を割り、出来るだけ早く組み立てる事を象徴的に捉えるKINTSUGIの違いが生まれることになる。KINTSUGIは金継ぎをリスペクトしていると言う人もいるが、その実は全く逆だったりする。
これまで、金継ぎの歴史を調べてnoteに書いたり、漆芸の歴史から生まれた金継ぎと、現在の商業ベースで広まった金継ぎには凡そ伝統と呼べる接点は無いという事を言ったり書いたりしてきたが、正直、肌感としては完全に手の打ちようのない状態だと思う。もはや日本人が行ってきた金継ぎは濁流による崩壊を起こしてしまっている。
それで考えたのは、所詮、金継ぎは昭和30年代に略称として生まれた若い言葉であり、そろそろ用語として新たなフェーズに移行する時期なのかもしれないという事。
「繕い」が「漆繕い」になり「金粉繕い」から「粉繕い」、「金粉継ぎ」から「金継ぎ」へと呼び名は変化を続けてきた。言葉は変わっても技法や気持ちとして受け継がれたものがあったと思うが、それすら無くなっているとしたら、それはもう別物だ。元来なら別物に対して新たな呼び名を考えるのが筋だと思うが、商業ベースで広まり拡散してしまった今となっては、それは叶わない願いだろう。
ならば、商業ベースの行為に「金継ぎ」という用語はくれてやって、縄文時代から続いた漆直しの源流を持った修理に別な用語を付けたら良いではないのではなかろうか。元来在るものという認識が生じればいいのだから、金継ぎという名称に執着する必要もない。執着しないのは禅の教えでもあるわけだし。
というわけで、そんな意味を表す何か良い言葉は無いかとずっと考えていて、「侘数寄(わびすき)」という茶道用語を見て語呂が似ている
「侘び継ぎ、侘継ぎ(わびつぎ)」
というのはどうだろうと思い付いた。
これならば金色である必要もないし、金色に執着する必要もない。銀でも良いし、漆だけでも良い。人と宅が入っている漢字の並びも良い。勿論、侘茶が持つ自然との接点みたいなものも感じられる、日本に根ざしたイメージが強く感じられそうな気がする、個人的には。
これまでの金継ぎの名称の歴史的文脈から言えば「漆継ぎ(うるしつぎ)」を用いる方が自然ではあるが、漆継ぎはどうにも語呂が悪い。「し」と「つ」が並んでいたり、5音節なのが原因ではないかと思う。
もっと良さげな言葉があれば、また書きたいと思うが、今のところ「侘継ぎ」は自分の中ではかなりしっくりきている。