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縄文土器は図柄より仕上げに注目したい、という話
No.
73
:
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2023年08月22日(火)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #陶芸 #縄文時代
さくら市ミュージアム荒井寛方記念館でやっている「栃木縄文の夏5000年前の土器世界」が8月27日までなので行ってきた。
なんとなんと、ガラスケースに入っていない縄文土器が至近距離1cmで鑑賞できるという、これはもう触っているのと同じくらいなので(もちろん触ってはいません)、鑑賞というより完全に観察である。
メインは縄文中期の土器で、その他に翡翠とか石棒などもあった。
そういうわけで、目からレーザー光線を出して穴が開くほどの近距離で分析してみて分かったが、縄文人の土器の仕上げのテクが半端ない。造形美ばかりが注目されるが、実はそれ以上に根本的な陶芸の技術力は物凄い。全く手を抜いていない。中でも凄いと思ったのは器の腰の仕上げと内側の作りの完璧さだ。
よく縄文式土器を作ってみようというワークショップで底を平らにして紐積みで形を作るが、あの方法とは明らかに違うというのはハッキリした。縄文土器、全部と言って良いと思うが、腰の角の面取りが完璧にされている。ワークショップの方法だと確実に腰に角やバリが出る。それが無い。綺麗に面を取った上に撫でつけて丸みを持たせている。小さいものならさておき、50㎝級の大型土器で、しかも口辺に精緻な飾りが付いているものでも腰の仕上げがされている。このサイズを上まで作って半乾きになるまで待ってから逆さにして腰を仕上げるのはどう考えても無茶なので、口を作る前に一度逆さにして仕上げるか、最初から腰を丸く仕上げておくしかない。が、腰を丸くした時点で安定性は悪くなるから、その後にバランスを取りながら左右対称で口辺まで積み上げて装飾を綺麗に作るのは難しい。現代のように大型のロクロでもあれば別だが、今のところ、ロクロのような道具は見つかっていない。
次に内側の仕上げの美しさだ。こうした形状の内側を仕上げる場合、今の感覚なら縦長の形状(特に土器下部のような形状)は下から上に撫でて平滑面を作っていくと思うが、見える範囲で覗き込んでみたがどれも下から上に撫でた形跡が無い。
更に驚くのは、あれだけ砂目の土を使っていながら、砂で引っ掻いた跡が見当たらない。シャモットや長石粒を入れた粘土を使った時には、仕上げで表面を綺麗にしようと少し乾き始めた状態で撫でつけると、粒が浮いて引っ掻き傷が出来るのだが、縄文土器には引っ掻き跡らしきものがほとんど見当たらない。撫でずに仕上げる方法があるとしたら、叩きを入れることになるが、そうすると須恵器のように内側に青海波文という叩いた道具の跡が残るはずだ。しかし、叩き跡も無いし、そもそも形状的に叩いて仕上げるには無理がある。
他にも、外に比べて内側の炭化が強過ぎる器は煮炊きで使われたとは考えにくいとか、どう見ても上下逆にした方が自然な用途に感じられる形状があるとか、いろいろと疑問は沸きまくるのだが、それは長くなるのでまたの機会にして、今回は、仕上げに関する予想を、一応、書いておく。
まず腰の仕上げだが、以前から上下に伸びる筒(正確には逆円錐台)と、円に広がる椀形は、異なる方法で制作され、両の形を仕上げてから接着したのではないかという想像はしていた。重力に逆らってあの形状を下から上に一気に作っていくにはかなりの無理がある。
だが、前回の尖底土器は土を掘って雌型にしたのではないかという話の逆で、土を盛り上げて凸状の雄型を作り、それに粘土を巻いていけば比較的安定した円錐台形を作ることが出来る。雄型で形を作る場合、長時間粘土を乾かしてしまうと乾燥収縮でヒビが入るため、そこそこの乾き具合で型から外し、別に作った鉢の底を抜いて合体させたのかもしれない。こうすると腰の丸みの仕上げをすることは難しく無い。
同時期の縄文土器を一度に見て感じたのだが、下半分は案外似た大きさの物が多い。作り方が板づくりではなく粘土紐を巻き上げて表面の継ぎ目を消す方法で作ったことは、破損断面の高解像分析から確実らしいので、それを考慮すると、上部の大きさがやたら違うのに、下部は厚みや長さが多少違っても、大体、似た太さとなってくるのはおかしなことではない。
次に、内側の仕上げについてだが、滑らかさから考えて、手以外に皮や布、木材などの道具を使っているかもしれないというのは予想出来る(木材は引っ掻き傷が出やすいので、皮か布になるが)。
だが、それで撫でたにしても綺麗すぎる。そこで非常に興味深いテクスチャの土器を見つけ、それが仕上げ方の予想に繋がった。
表面に貫入のような細かいヒビが出ているのが分かる。貫入の場合は窯が冷める時に素地と釉の冷却収縮差で生じるのだが、この写真のヒビは恐らく焼成後の冷却で生じたものではない。似たような状態になるのは、素地の乾燥が進んだ状態で上に粘土質が多目の化粧土を少し厚めに塗ると起こりやすい。乾燥収縮が進み、かつ、吸水性が高い素地に水分の多い泥漿を塗ると、泥漿の水分が一気に吸収され乾燥収縮することで、こうしたヒビヒビが現れる。
つまり、縄文土器の内側は、形を作った後に泥漿で仕上げ塗りをしている、または、水を含ませた布で泥状になるまで内側を拭いていると考えられる。それであれば、砂目の多い素地でも、表面の引っ掻き傷は少なくなる。私も陶胎漆器を作る時、赤土を塗って布で拭くと表面が滑らかになるのは経験している。本来はもう少し素地が湿っている状態で行えばヒビは出ない。写真の土器は素地が乾きすぎたけど、まぁいいかという感じで仕上げたら、なんかカッコイイヒビが出たからこのまま使おうとなったのかもしれない(あるいは、あまりヒビの有無は関係ない器の用途だったという可能性の方が高いか)。
ちなみに、この技法を更に緻密に仕上げると、紀元前500~200年頃の古代ヨーロッパの発掘品として出てくるテラシギラタという陶器の技法になる。まるで釉薬を掛けたかのような光沢感が生まれる。日本では常滑焼の朱泥急須が近いが、明らかにテラシギラタが用いられたと分かる器は残っていない。泥団子という子供の遊びでテラシギラタは残るのみとなっている。
もしかしたら、縄文土器の内側も元々はもっと光沢感があったのかもしれないが、流石に紀元前5000年の発掘品だと、いくら状態が良いとはいえ、テラシギラタの光沢感まで残るのは難しいのだろう。
とにもかくにも、泥漿による内側の仕上げがもし行われているとしたら、縄文人はかなり目止めやコーティングに関する知見が深かったと思われるわけで、なるほど漆や天然アスファルトを精製して塗るという作業が出来るのは必然なのだろう、と妙に納得してしまった。
さくら市ミュージアム荒井寛方記念館でやっている「栃木縄文の夏5000年前の土器世界」が8月27日までなので行ってきた。
なんとなんと、ガラスケースに入っていない縄文土器が至近距離1cmで鑑賞できるという、これはもう触っているのと同じくらいなので(もちろん触ってはいません)、鑑賞というより完全に観察である。
メインは縄文中期の土器で、その他に翡翠とか石棒などもあった。
そういうわけで、目からレーザー光線を出して穴が開くほどの近距離で分析してみて分かったが、縄文人の土器の仕上げのテクが半端ない。造形美ばかりが注目されるが、実はそれ以上に根本的な陶芸の技術力は物凄い。全く手を抜いていない。中でも凄いと思ったのは器の腰の仕上げと内側の作りの完璧さだ。
よく縄文式土器を作ってみようというワークショップで底を平らにして紐積みで形を作るが、あの方法とは明らかに違うというのはハッキリした。縄文土器、全部と言って良いと思うが、腰の角の面取りが完璧にされている。ワークショップの方法だと確実に腰に角やバリが出る。それが無い。綺麗に面を取った上に撫でつけて丸みを持たせている。小さいものならさておき、50㎝級の大型土器で、しかも口辺に精緻な飾りが付いているものでも腰の仕上げがされている。このサイズを上まで作って半乾きになるまで待ってから逆さにして腰を仕上げるのはどう考えても無茶なので、口を作る前に一度逆さにして仕上げるか、最初から腰を丸く仕上げておくしかない。が、腰を丸くした時点で安定性は悪くなるから、その後にバランスを取りながら左右対称で口辺まで積み上げて装飾を綺麗に作るのは難しい。現代のように大型のロクロでもあれば別だが、今のところ、ロクロのような道具は見つかっていない。
次に内側の仕上げの美しさだ。こうした形状の内側を仕上げる場合、今の感覚なら縦長の形状(特に土器下部のような形状)は下から上に撫でて平滑面を作っていくと思うが、見える範囲で覗き込んでみたがどれも下から上に撫でた形跡が無い。
更に驚くのは、あれだけ砂目の土を使っていながら、砂で引っ掻いた跡が見当たらない。シャモットや長石粒を入れた粘土を使った時には、仕上げで表面を綺麗にしようと少し乾き始めた状態で撫でつけると、粒が浮いて引っ掻き傷が出来るのだが、縄文土器には引っ掻き跡らしきものがほとんど見当たらない。撫でずに仕上げる方法があるとしたら、叩きを入れることになるが、そうすると須恵器のように内側に青海波文という叩いた道具の跡が残るはずだ。しかし、叩き跡も無いし、そもそも形状的に叩いて仕上げるには無理がある。
他にも、外に比べて内側の炭化が強過ぎる器は煮炊きで使われたとは考えにくいとか、どう見ても上下逆にした方が自然な用途に感じられる形状があるとか、いろいろと疑問は沸きまくるのだが、それは長くなるのでまたの機会にして、今回は、仕上げに関する予想を、一応、書いておく。
まず腰の仕上げだが、以前から上下に伸びる筒(正確には逆円錐台)と、円に広がる椀形は、異なる方法で制作され、両の形を仕上げてから接着したのではないかという想像はしていた。重力に逆らってあの形状を下から上に一気に作っていくにはかなりの無理がある。
だが、前回の尖底土器は土を掘って雌型にしたのではないかという話の逆で、土を盛り上げて凸状の雄型を作り、それに粘土を巻いていけば比較的安定した円錐台形を作ることが出来る。雄型で形を作る場合、長時間粘土を乾かしてしまうと乾燥収縮でヒビが入るため、そこそこの乾き具合で型から外し、別に作った鉢の底を抜いて合体させたのかもしれない。こうすると腰の丸みの仕上げをすることは難しく無い。
同時期の縄文土器を一度に見て感じたのだが、下半分は案外似た大きさの物が多い。作り方が板づくりではなく粘土紐を巻き上げて表面の継ぎ目を消す方法で作ったことは、破損断面の高解像分析から確実らしいので、それを考慮すると、上部の大きさがやたら違うのに、下部は厚みや長さが多少違っても、大体、似た太さとなってくるのはおかしなことではない。
次に、内側の仕上げについてだが、滑らかさから考えて、手以外に皮や布、木材などの道具を使っているかもしれないというのは予想出来る(木材は引っ掻き傷が出やすいので、皮か布になるが)。
だが、それで撫でたにしても綺麗すぎる。そこで非常に興味深いテクスチャの土器を見つけ、それが仕上げ方の予想に繋がった。
表面に貫入のような細かいヒビが出ているのが分かる。貫入の場合は窯が冷める時に素地と釉の冷却収縮差で生じるのだが、この写真のヒビは恐らく焼成後の冷却で生じたものではない。似たような状態になるのは、素地の乾燥が進んだ状態で上に粘土質が多目の化粧土を少し厚めに塗ると起こりやすい。乾燥収縮が進み、かつ、吸水性が高い素地に水分の多い泥漿を塗ると、泥漿の水分が一気に吸収され乾燥収縮することで、こうしたヒビヒビが現れる。
つまり、縄文土器の内側は、形を作った後に泥漿で仕上げ塗りをしている、または、水を含ませた布で泥状になるまで内側を拭いていると考えられる。それであれば、砂目の多い素地でも、表面の引っ掻き傷は少なくなる。私も陶胎漆器を作る時、赤土を塗って布で拭くと表面が滑らかになるのは経験している。本来はもう少し素地が湿っている状態で行えばヒビは出ない。写真の土器は素地が乾きすぎたけど、まぁいいかという感じで仕上げたら、なんかカッコイイヒビが出たからこのまま使おうとなったのかもしれない(あるいは、あまりヒビの有無は関係ない器の用途だったという可能性の方が高いか)。
ちなみに、この技法を更に緻密に仕上げると、紀元前500~200年頃の古代ヨーロッパの発掘品として出てくるテラシギラタという陶器の技法になる。まるで釉薬を掛けたかのような光沢感が生まれる。日本では常滑焼の朱泥急須が近いが、明らかにテラシギラタが用いられたと分かる器は残っていない。泥団子という子供の遊びでテラシギラタは残るのみとなっている。
もしかしたら、縄文土器の内側も元々はもっと光沢感があったのかもしれないが、流石に紀元前5000年の発掘品だと、いくら状態が良いとはいえ、テラシギラタの光沢感まで残るのは難しいのだろう。
とにもかくにも、泥漿による内側の仕上げがもし行われているとしたら、縄文人はかなり目止めやコーティングに関する知見が深かったと思われるわけで、なるほど漆や天然アスファルトを精製して塗るという作業が出来るのは必然なのだろう、と妙に納得してしまった。
尖底土器は意外と過小評価されていると思う話
No.
72
:
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2023年08月18日(金)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き#陶芸 #縄文時代
縄文式土器というと縄文中期の火炎型がやたら有名なのは、形の面白さから理解できるわけだが、私は縄文初期の丸底や尖底土器というのがかなり昔から気になっている。
というのも、先が尖った安定しない器というのは現代の陶芸感覚からすると非常に作り難い。今の感覚で作り方を考えるとすれば、粘土を山形に固めて少し乾かして先端が乾き始めたら中を削り、ひっくり返して口の方を作っていくというのが最も効率的なのかもしれない。なので結果的には外を先に仕上げる事になる。私自身は、ずっとそうやって作っているのだろうと考えていた。
しかし、ある時、気付いたのは、人間が土に穴を掘ったら半球や逆円錐形じゃね?という事。
つまり、尖底式土器は土に穴を掘り、その穴に粘土を付けて形を作ったのではないかという推測が出来る。
そもそも、縄文人は何故、焼いて固めた器なんてものを思い付いたのかという根源的なことを考えると、おそらく粘土質の土地を雨上がりに人が歩いたり、更に雨が降ったりして大地にくぼみが出来る。そこが干上がって土が乾き、どこかの誰かが、この乾いた土の形って良い感じの容器になるんじゃね?と思って火にかけてみたら硬くなったとか、あるいはそうしたくぼみで火をたいた後、偶然に土器になっていたのを見つけたとか、恐らくそんなところだと思うのだ。
ということは、土器はまず最初、大地を窪ませる、つまり穴を掘るところから始まっているはずだ。動物捕獲用の矢じりがついた矢みたいなものでカツカツと大地を掘ったら尖底土器の形になるはずで、ここに泥に近い柔らかい粘土をペタペタと塗っていき、ある程度乾かしたら粘土を付け足して口を成形した後、ゴソッと抜いて伏せてから外側を仕上げる、みたいな。最初はそんな感じで土器を作っていたのではないだろうか。
そのうち、土を掘るの面倒だから、もう少し粘土を乾かして可塑性出すようにすれば穴掘らなくても器作れるんじゃね?という事に気付いた人が、今度は穴を掘らずに地上で器の形を作ることを考え出して、底が平らな土器が主流になっていく。そういう流れだったんじゃないかと思う。
なので、尖底土器と、底が平らな土器では、極めて大きな技術革新というか思考の変化があったりすると思うのだ。
尖底土器は、もっと、どうやって作ったのかを深く推測する必要があると思う。縄文人の思考の根源に辿り着けるはずだから。
縄文式土器というと縄文中期の火炎型がやたら有名なのは、形の面白さから理解できるわけだが、私は縄文初期の丸底や尖底土器というのがかなり昔から気になっている。
というのも、先が尖った安定しない器というのは現代の陶芸感覚からすると非常に作り難い。今の感覚で作り方を考えるとすれば、粘土を山形に固めて少し乾かして先端が乾き始めたら中を削り、ひっくり返して口の方を作っていくというのが最も効率的なのかもしれない。なので結果的には外を先に仕上げる事になる。私自身は、ずっとそうやって作っているのだろうと考えていた。
しかし、ある時、気付いたのは、人間が土に穴を掘ったら半球や逆円錐形じゃね?という事。
つまり、尖底式土器は土に穴を掘り、その穴に粘土を付けて形を作ったのではないかという推測が出来る。
そもそも、縄文人は何故、焼いて固めた器なんてものを思い付いたのかという根源的なことを考えると、おそらく粘土質の土地を雨上がりに人が歩いたり、更に雨が降ったりして大地にくぼみが出来る。そこが干上がって土が乾き、どこかの誰かが、この乾いた土の形って良い感じの容器になるんじゃね?と思って火にかけてみたら硬くなったとか、あるいはそうしたくぼみで火をたいた後、偶然に土器になっていたのを見つけたとか、恐らくそんなところだと思うのだ。
ということは、土器はまず最初、大地を窪ませる、つまり穴を掘るところから始まっているはずだ。動物捕獲用の矢じりがついた矢みたいなものでカツカツと大地を掘ったら尖底土器の形になるはずで、ここに泥に近い柔らかい粘土をペタペタと塗っていき、ある程度乾かしたら粘土を付け足して口を成形した後、ゴソッと抜いて伏せてから外側を仕上げる、みたいな。最初はそんな感じで土器を作っていたのではないだろうか。
そのうち、土を掘るの面倒だから、もう少し粘土を乾かして可塑性出すようにすれば穴掘らなくても器作れるんじゃね?という事に気付いた人が、今度は穴を掘らずに地上で器の形を作ることを考え出して、底が平らな土器が主流になっていく。そういう流れだったんじゃないかと思う。
なので、尖底土器と、底が平らな土器では、極めて大きな技術革新というか思考の変化があったりすると思うのだ。
尖底土器は、もっと、どうやって作ったのかを深く推測する必要があると思う。縄文人の思考の根源に辿り着けるはずだから。
珈琲ドリップは「ミルカフェ、一投式、ステア」という話
No.
69
:
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2023年08月08日(火)
#徒然なる日記 #珈琲 #どうでもいい思い付き
修理でご贔屓頂いているお客様から、ミルカフェ(Mille Cafe) というデンマークのポリプロピレン製ドリップフィルタを頂いた。1000回ドリップできるフィルタで、紙を無駄にしないからエコらしいが、そのぶん洗浄で水を多めに使うのでエコかどうかは懐疑的だが、そこは置いておくとして、試しに使ってみたら珈琲のフレーバーが一段上になるというか、この豆ってこんな味だったのかと驚いた。ペーパードリップの際には、紙の臭いがしないという酸素漂白のアバカ珈琲フィルタを使っていて結構満足していたが、ミルカフェと比較してみると、やっぱり微妙に紙の感じが珈琲に影響するというか、かなり珈琲の旨い部分を削られてしまっているように思う。
ところで、バリスタ世界チャンピオンの粕谷哲さんのYoutubeで蒸らし無しの一投式ドリップ というのを紹介していて、やってみたところ複数回に分けてお湯を注ぐ方式と味は違うけれど、これはこれで非常に旨い。そして何より朝に眠気眼でやるには丁度良い手順だったので、最近はずっと一投式で入れていたのだが、ミルカフェでも出来るかなとやってみたら、これがかなり旨い。
更に、一投式は複投式に比べると少し味が軽めなになるのだが、お湯を入れてステアしてみたらどうかなと気付いてやったら、一気に味が複雑になって重みが出た。無茶苦茶旨い。
というわけで、今は、ミルカフェに細挽きの粉を入れて、既定のお湯を一気に注いだ後、スプーンを3回軽く上下させてステア。という手順で落ち着いている。
修理でご贔屓頂いているお客様から、ミルカフェ(Mille Cafe) というデンマークのポリプロピレン製ドリップフィルタを頂いた。1000回ドリップできるフィルタで、紙を無駄にしないからエコらしいが、そのぶん洗浄で水を多めに使うのでエコかどうかは懐疑的だが、そこは置いておくとして、試しに使ってみたら珈琲のフレーバーが一段上になるというか、この豆ってこんな味だったのかと驚いた。ペーパードリップの際には、紙の臭いがしないという酸素漂白のアバカ珈琲フィルタを使っていて結構満足していたが、ミルカフェと比較してみると、やっぱり微妙に紙の感じが珈琲に影響するというか、かなり珈琲の旨い部分を削られてしまっているように思う。
ところで、バリスタ世界チャンピオンの粕谷哲さんのYoutubeで蒸らし無しの一投式ドリップ というのを紹介していて、やってみたところ複数回に分けてお湯を注ぐ方式と味は違うけれど、これはこれで非常に旨い。そして何より朝に眠気眼でやるには丁度良い手順だったので、最近はずっと一投式で入れていたのだが、ミルカフェでも出来るかなとやってみたら、これがかなり旨い。
更に、一投式は複投式に比べると少し味が軽めなになるのだが、お湯を入れてステアしてみたらどうかなと気付いてやったら、一気に味が複雑になって重みが出た。無茶苦茶旨い。
というわけで、今は、ミルカフェに細挽きの粉を入れて、既定のお湯を一気に注いだ後、スプーンを3回軽く上下させてステア。という手順で落ち着いている。
カゼイン漆は混ぜ方がポイントなのかもしれないという話
No.
66
:
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2023年08月02日(水)
#金継ぎ #陶磁器修理 #どうでもいい思い付き
カゼイン漆の水没試験をしてみて分かったのは、カゼイン漆は固まるのが遅いという事だ。いや、固まるのが遅いというのは語弊がある。糊漆や接着用錆漆と同じタイミングで接着をすると2ヵ月経っても芯まで乾かず、水没試験で接着強度が落ちる。糊漆や接着用錆は2か月で耐水強度が出るのに。
最近は全く麦漆を使っていないが、そういえば麦漆も直ぐに接着すると芯まで乾かないことを思い出したので、タンパク質の入った漆は接着のタイミングが早すぎるとアカンのだなと気付いた。
そもそも硬化した漆というのは、どれくらい酸素を透過するのか?ポリエチレンなどは水を通さずとも空気は通す膜だが、漆の塗膜はどうなんだろう?何となくナイロンのように酸素を透過させなさそうな気がする。調べてみたが漆の塗膜の酸素透過率の話は全く見つからず。
例えば5mm厚の磁器を接着した場合、接着面は5㎜厚の塗膜みたいなものだ(左右から乾いていくから2.5mmの塗膜を表裏に塗ったと考える方が適切かもしれないが)。もし、平面に5mm厚で塗ったとしたら、間違いなく表層が乾いたら中は乾かない。もし漆の塗膜が酸素を透過させるとすれば、この状況でも酸化は行われて少しずつ硬くなるように思うが、そうはならないだろう。
麦漆は接着断面に塗った後、少し養生して酵素によるカテコールの結合が始まったのを確認してから張り合わせるわけなので、カゼイン漆もそういう張り合わせ方が必要なのかもしれない。
だが性質上、カゼイン漆は薄く塗り伸ばすのが難しいので、だとしたら、塗る前の漆とカゼインを混ぜる時点で、手動のクロメをする時のように出来るだけゆっくりと練り合わせ、カテコールを結合し始めてから接着断面に塗る方が良いのかもしれない。
いずれにせよ、混ざったのと、使える状態に混ぜたのは明確に違うということで、扱い方に注意が必要ということなんだろう。
カゼイン漆の水没試験をしてみて分かったのは、カゼイン漆は固まるのが遅いという事だ。いや、固まるのが遅いというのは語弊がある。糊漆や接着用錆漆と同じタイミングで接着をすると2ヵ月経っても芯まで乾かず、水没試験で接着強度が落ちる。糊漆や接着用錆は2か月で耐水強度が出るのに。
最近は全く麦漆を使っていないが、そういえば麦漆も直ぐに接着すると芯まで乾かないことを思い出したので、タンパク質の入った漆は接着のタイミングが早すぎるとアカンのだなと気付いた。
そもそも硬化した漆というのは、どれくらい酸素を透過するのか?ポリエチレンなどは水を通さずとも空気は通す膜だが、漆の塗膜はどうなんだろう?何となくナイロンのように酸素を透過させなさそうな気がする。調べてみたが漆の塗膜の酸素透過率の話は全く見つからず。
例えば5mm厚の磁器を接着した場合、接着面は5㎜厚の塗膜みたいなものだ(左右から乾いていくから2.5mmの塗膜を表裏に塗ったと考える方が適切かもしれないが)。もし、平面に5mm厚で塗ったとしたら、間違いなく表層が乾いたら中は乾かない。もし漆の塗膜が酸素を透過させるとすれば、この状況でも酸化は行われて少しずつ硬くなるように思うが、そうはならないだろう。
麦漆は接着断面に塗った後、少し養生して酵素によるカテコールの結合が始まったのを確認してから張り合わせるわけなので、カゼイン漆もそういう張り合わせ方が必要なのかもしれない。
だが性質上、カゼイン漆は薄く塗り伸ばすのが難しいので、だとしたら、塗る前の漆とカゼインを混ぜる時点で、手動のクロメをする時のように出来るだけゆっくりと練り合わせ、カテコールを結合し始めてから接着断面に塗る方が良いのかもしれない。
いずれにせよ、混ざったのと、使える状態に混ぜたのは明確に違うということで、扱い方に注意が必要ということなんだろう。
練り込みには茹で卵カット器が良いという話
No.
64
:
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2023年07月31日(月)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #陶芸
夏休み子供自由研究で陶芸講座をお願いされた。普通に皿を作るだけで良いみたいなのだが、自由研究という冠が付いているので多少は研究の跡が残りそうな作陶はないかと考えて、簡単な練り込みをやってみようと考えた。
練り込みで一番面倒なのは、同じ幅で粘土をカットする工程で、セオリーだとタタラ板と切り紐を使うのだが、そうなると結構大掛かりだし無駄も多く、更に子供には難度が高い。
で、何か良い方法はないかと考えていて、茹で卵を等幅にカットするやつが使えないだろうかと閃いた。
100均で探したら、丁度いい大きさで、しかもカットの網の部分が簡単に外れる作りだったので、これは良いと思い購入。試しにやってみたらバッチリ7ミリで7枚切り出せる。子供が作る大きさの器であれば、これで何回かやって切り出せばばっちりではないか。
茹で卵カット器は、もっと練り込みで流行ってもいいと思う。あ、流行る前に買い込んでおこうかな。
夏休み子供自由研究で陶芸講座をお願いされた。普通に皿を作るだけで良いみたいなのだが、自由研究という冠が付いているので多少は研究の跡が残りそうな作陶はないかと考えて、簡単な練り込みをやってみようと考えた。
練り込みで一番面倒なのは、同じ幅で粘土をカットする工程で、セオリーだとタタラ板と切り紐を使うのだが、そうなると結構大掛かりだし無駄も多く、更に子供には難度が高い。
で、何か良い方法はないかと考えていて、茹で卵を等幅にカットするやつが使えないだろうかと閃いた。
100均で探したら、丁度いい大きさで、しかもカットの網の部分が簡単に外れる作りだったので、これは良いと思い購入。試しにやってみたらバッチリ7ミリで7枚切り出せる。子供が作る大きさの器であれば、これで何回かやって切り出せばばっちりではないか。
茹で卵カット器は、もっと練り込みで流行ってもいいと思う。あ、流行る前に買い込んでおこうかな。
せっかちは性格ではないという話
No.
63
:
Posted at
2023年07月27日(木)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き
せっかちと言われて落ち込む人がいるが、せっかちは生来持っているものではない。つまり、せっかちは直せない性格ではなく後天的に修正可能なものなので落ち込む要素にはならない。だが、直し方をちゃんと伝える人間が少ないので、言われると落ち込むようだ。
「せっかち」の対義語は「のんびり」ではなく「気が利く」である。対となる要素は、先読みの精度だ。精度が低いとせっかちと言われ、精度が高いと気が利くと言われるようになる。
つまり、先読みの精度をあげるようにすれば何も問題はない。
先読みは、何も遠い未来を予言するような大それたものである必要はない。まずは1秒先が読めればいい。これだけでも状況はかなり変化する。1秒先が読めないのに10
分先を読もうとするからせっかちになる。現状を注意深く観察し、何が必要になるかを予測する。間違った時は、反省する前に、より精度を上げるには何が必要かを考える。それを何度も繰り返していって、5秒先まで高精度な読みが出来るようになれば、間違いなくせっかちと言われることはない。言われないだけではなく、気が利くと言われるだろう。
せっかちと言われて落ち込む人がいるが、せっかちは生来持っているものではない。つまり、せっかちは直せない性格ではなく後天的に修正可能なものなので落ち込む要素にはならない。だが、直し方をちゃんと伝える人間が少ないので、言われると落ち込むようだ。
「せっかち」の対義語は「のんびり」ではなく「気が利く」である。対となる要素は、先読みの精度だ。精度が低いとせっかちと言われ、精度が高いと気が利くと言われるようになる。
つまり、先読みの精度をあげるようにすれば何も問題はない。
先読みは、何も遠い未来を予言するような大それたものである必要はない。まずは1秒先が読めればいい。これだけでも状況はかなり変化する。1秒先が読めないのに10
分先を読もうとするからせっかちになる。現状を注意深く観察し、何が必要になるかを予測する。間違った時は、反省する前に、より精度を上げるには何が必要かを考える。それを何度も繰り返していって、5秒先まで高精度な読みが出来るようになれば、間違いなくせっかちと言われることはない。言われないだけではなく、気が利くと言われるだろう。
直ぐに出来る事が才能ではないという話
No.
62
:
Posted at
2023年07月23日(日)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き
教育実習で薄々感じてはいたが、教員採用試験でグループ討論というのがありグループになった面子を見ていて、やっぱ、自分は教員という職業には向いていないなと確信して30年位。
だが、教員にはならなかったが、陶芸だの金継ぎだのを30年間教える仕事は続いていたりするのだから不思議なものだ。
そんな30年間で思うのは、才能というのを勘違いしている人は非常に多いという事。
大抵は、聞いて直ぐに物事が出来る事が才能だと思っている人が多い。
しかし、教える側から見ていると、直ぐに出来るのは『得意』であって『才能』とは別である。
人には成長曲線というものがあり、成長曲線は必ずS字になっている。要するに学び始めと同時に少しずつ技術や知識の上達が始まり、ある時点から急に上達が加速するようになるわけだ。
この上達の急激な加速までが短期間だった場合、それを『得意』と言う。得意というのは本人の好き嫌いとは関係なく存在する。好きで得意が理想ではあるが、嫌いでも得意な場合はあり、そういう人は嫌そうな顔をしながらも仕事で成果を出したりする。だが、それは才能ではない。
才能のというのは、、成長曲線の上昇が始まるまで、言い換えると成長の加速がかかるまで「続けられる性格」を言う。と私は解釈している。
人間は続ければ、成長の加速は必ず起こる。つまり、才能というのは誰にでも有るものなのだ。
得意と才能が偶然に一致すると天才とか非凡な才能と言われたりするのだが、時間が掛かっても加速が始まるまで続けている人は、その事への才能があるのだと思う。だが、加速が始まるまで続けられる人間は意外と少ない。才能が無いとは成長が加速するまで待てなかったことを言う。
更に残念な事だが、大体の世間様は成長が加速し始めてからしか注目しないので、加速までの時間を考慮しない。それが余計に得意と才能を混同させてしまっている。
ものを教える人に一番大切なのは、成長が加速するまで付き合えるかどうか。才能が起こるまで待てるかどうかではないかと思う。
教え方が上手いと、成長が加速するまでの期間を多少短縮させたりすることは出来るが、教え方の上手さは、待てるかどうかに比べると比重は高くないと思う。
教育実習で薄々感じてはいたが、教員採用試験でグループ討論というのがありグループになった面子を見ていて、やっぱ、自分は教員という職業には向いていないなと確信して30年位。
だが、教員にはならなかったが、陶芸だの金継ぎだのを30年間教える仕事は続いていたりするのだから不思議なものだ。
そんな30年間で思うのは、才能というのを勘違いしている人は非常に多いという事。
大抵は、聞いて直ぐに物事が出来る事が才能だと思っている人が多い。
しかし、教える側から見ていると、直ぐに出来るのは『得意』であって『才能』とは別である。
人には成長曲線というものがあり、成長曲線は必ずS字になっている。要するに学び始めと同時に少しずつ技術や知識の上達が始まり、ある時点から急に上達が加速するようになるわけだ。
この上達の急激な加速までが短期間だった場合、それを『得意』と言う。得意というのは本人の好き嫌いとは関係なく存在する。好きで得意が理想ではあるが、嫌いでも得意な場合はあり、そういう人は嫌そうな顔をしながらも仕事で成果を出したりする。だが、それは才能ではない。
才能のというのは、、成長曲線の上昇が始まるまで、言い換えると成長の加速がかかるまで「続けられる性格」を言う。と私は解釈している。
人間は続ければ、成長の加速は必ず起こる。つまり、才能というのは誰にでも有るものなのだ。
得意と才能が偶然に一致すると天才とか非凡な才能と言われたりするのだが、時間が掛かっても加速が始まるまで続けている人は、その事への才能があるのだと思う。だが、加速が始まるまで続けられる人間は意外と少ない。才能が無いとは成長が加速するまで待てなかったことを言う。
更に残念な事だが、大体の世間様は成長が加速し始めてからしか注目しないので、加速までの時間を考慮しない。それが余計に得意と才能を混同させてしまっている。
ものを教える人に一番大切なのは、成長が加速するまで付き合えるかどうか。才能が起こるまで待てるかどうかではないかと思う。
教え方が上手いと、成長が加速するまでの期間を多少短縮させたりすることは出来るが、教え方の上手さは、待てるかどうかに比べると比重は高くないと思う。
煮詰まったインクは水で希釈できるという話
No.
59
:
Posted at
2023年07月17日(月)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #万年筆
万年筆を暫く使っていないとインクの水分が蒸発して濃度が上がってしまい、書けなかったりギリギリ書けるが濃くて書き難い状態になってしまう。これをインクが煮詰まるというのだが、前々から煮詰まったインクは水で希釈しても良いのかという疑問があった。検索しても、筆に付けて使う時に水で薄める話はあっても、煮詰まったインクを希釈する目的でコンバーターに水を入れても良いのかは分からず。やっぱり煮詰まったら万年筆を洗うしかないのかと思いながら疑問を棚上げにしていたのだが、先日、煮詰まった状態の万年筆が出てきて、また洗わないといけないかぁと水を入れたコップに万年筆のニブを付けてコンバーターに水を吸い込ませた。いつもは、吸い上げたら直ぐに中の水を押し出すのだが、この時は何となく吸い上げた後、紙で試し書きをしてみたら、ん!問題なく書ける。しかも書き味全く変わらず。インクが滲んだりすることもない。
で、長年の疑問が一掃出来た。煮詰まったインクは水で希釈出来る。
今回は洗う目的で水道水を使ったが、もしかしたら微量の塩素などが影響あるかもしれないので、ドラッグストアで精製水を買ってきて使う方が良いと思う。ま、とにかく煮詰まったインクは精製水で希釈してそのまま使えるという事がはっきりした。
万年筆を暫く使っていないとインクの水分が蒸発して濃度が上がってしまい、書けなかったりギリギリ書けるが濃くて書き難い状態になってしまう。これをインクが煮詰まるというのだが、前々から煮詰まったインクは水で希釈しても良いのかという疑問があった。検索しても、筆に付けて使う時に水で薄める話はあっても、煮詰まったインクを希釈する目的でコンバーターに水を入れても良いのかは分からず。やっぱり煮詰まったら万年筆を洗うしかないのかと思いながら疑問を棚上げにしていたのだが、先日、煮詰まった状態の万年筆が出てきて、また洗わないといけないかぁと水を入れたコップに万年筆のニブを付けてコンバーターに水を吸い込ませた。いつもは、吸い上げたら直ぐに中の水を押し出すのだが、この時は何となく吸い上げた後、紙で試し書きをしてみたら、ん!問題なく書ける。しかも書き味全く変わらず。インクが滲んだりすることもない。
で、長年の疑問が一掃出来た。煮詰まったインクは水で希釈出来る。
今回は洗う目的で水道水を使ったが、もしかしたら微量の塩素などが影響あるかもしれないので、ドラッグストアで精製水を買ってきて使う方が良いと思う。ま、とにかく煮詰まったインクは精製水で希釈してそのまま使えるという事がはっきりした。
電気コンロにロースターを乗せて焙煎は出来るのか?
No.
57
:
Posted at
2023年07月09日(日)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #珈琲 #焙煎
ネット検索をしていたら、最近は中国製のグリル鍋のような電熱式の自動焙煎機がいろいろ出ていると知る。ずっとカセットガスコンロにサンプルロースターを乗せて1回に400g位を焼いているが、ガス圧が安定しない上に火力がすぐに落ちるし(特に冬場は)、何よりカセットボンベはガスが必ず少し残るので勿体ない。何とか出来ないものかと思っていたが、そうか電熱という手があったのかと。考えてみれば陶芸窯は電気で1250℃の本焼きが出来るわけだから、電熱で焙煎は当然できるはずだ。しかし中国製とはいえ安くても1万円前後はするし、興味本位で買うわけにもいかないので、それなら電気コンロにサンプルロースターを乗せても焙煎は出来るんじゃないのか?とネット検索してみたが、そもそも電気コンロで焙煎をするという話が非常に少ないうえに、サンプルロースターを乗せて焼くという話は全く見つからない。
やった人が居ないはずは無いので、ネットに書くほど成功はしていないのだろうという予想は出来るが、どの程度のところまで出来るのか?何か工夫することで焙煎出来たりはしないのか?と非常に気になったので、電気コンロ(1200W)にサンプルロースターを乗せて300gの焙煎をやってみることにした。
写真だと分かりにくいが、サンプルロースターはダイソーで買ったレンジガードを加工して熱が逃げないようにし、私が持っているのはパンチングのロースターなので焙煎中にチャフが電熱体に落ちないようアルミホイルを巻いた。
結論から言うと、1200Wならば中煎りの焙煎は出来る。味は驚くほど雑味が無く、甘みのある癖のない味になる。旨いか不味いかで言えばかなり旨い部類になると思う。しかも驚いたことに電気で焙煎するとガスの時のような物凄い煙がほとんど出ない。
と聞くと電気良いじゃないかと思われるかもしれないが、ただし”中煎りになるまで2時間かかる”…。ぶっちゃけ途中で2度ほど心が折れた。電熱線の加熱なのでIHのように接触していなくても加熱は出来るだろうと思っていたが、電気コンロも基本的には接触により熱を伝えるのを前提に設計されているようで、1㎝でも離れると火力は極端に落ちる。
最初はガス焙煎と同じようにロースターを連続的に回していたのだが、それでは全く豆が焼けてこないので、20秒停止してから1回まわす方法に切り替えたら豆が焼けてくるようになった。2時間ずっと手を回し続ける必要は無いので筋力的に疲れることはない。精神的には飽きてくるのでダメージあるけれども。
それと、豆がハゼない。ハゼないのでガスに比べると焙煎後の豆は膨らみ方が小さい。それで味に癖がないのかもしれないが、とにかくも1ハゼも2ハゼも無く豆に色が付いてくるので、音や臭いや煙の量で焙煎の状態を予測することが出来ない。たびたびロースターを下ろして豆を出して見ないといけないので、これが思いの外、面倒くさい。
おそらく2時間掛かる最大の敗因はサンプルロースターを使ったことではないかと思う。焙煎中に豆を転がしてやらないと焼きムラが出来てしまうので何らかの方法で豆を転がす必要はあるのだが、電熱の場合、それがサンプルロースターのように空間で回転させる方法ではダメなのだ。ロースターではなくグリル鍋的な、電気コンロに乗せるなら鉄鍋のように底が平面でより確実に熱源に接触した状態で、木べらなどで豆を転がしながら焼けば多分上手くいくと思う(もうやらないけど)。
電熱で焙煎した珈琲の豆の味はガス式とは全く違った味になるので、一度は挑戦してみても悪くないと思う。ただし、やるときは使用する器具の選択を十分吟味するように。
ネット検索をしていたら、最近は中国製のグリル鍋のような電熱式の自動焙煎機がいろいろ出ていると知る。ずっとカセットガスコンロにサンプルロースターを乗せて1回に400g位を焼いているが、ガス圧が安定しない上に火力がすぐに落ちるし(特に冬場は)、何よりカセットボンベはガスが必ず少し残るので勿体ない。何とか出来ないものかと思っていたが、そうか電熱という手があったのかと。考えてみれば陶芸窯は電気で1250℃の本焼きが出来るわけだから、電熱で焙煎は当然できるはずだ。しかし中国製とはいえ安くても1万円前後はするし、興味本位で買うわけにもいかないので、それなら電気コンロにサンプルロースターを乗せても焙煎は出来るんじゃないのか?とネット検索してみたが、そもそも電気コンロで焙煎をするという話が非常に少ないうえに、サンプルロースターを乗せて焼くという話は全く見つからない。
やった人が居ないはずは無いので、ネットに書くほど成功はしていないのだろうという予想は出来るが、どの程度のところまで出来るのか?何か工夫することで焙煎出来たりはしないのか?と非常に気になったので、電気コンロ(1200W)にサンプルロースターを乗せて300gの焙煎をやってみることにした。
写真だと分かりにくいが、サンプルロースターはダイソーで買ったレンジガードを加工して熱が逃げないようにし、私が持っているのはパンチングのロースターなので焙煎中にチャフが電熱体に落ちないようアルミホイルを巻いた。
結論から言うと、1200Wならば中煎りの焙煎は出来る。味は驚くほど雑味が無く、甘みのある癖のない味になる。旨いか不味いかで言えばかなり旨い部類になると思う。しかも驚いたことに電気で焙煎するとガスの時のような物凄い煙がほとんど出ない。
と聞くと電気良いじゃないかと思われるかもしれないが、ただし”中煎りになるまで2時間かかる”…。ぶっちゃけ途中で2度ほど心が折れた。電熱線の加熱なのでIHのように接触していなくても加熱は出来るだろうと思っていたが、電気コンロも基本的には接触により熱を伝えるのを前提に設計されているようで、1㎝でも離れると火力は極端に落ちる。
最初はガス焙煎と同じようにロースターを連続的に回していたのだが、それでは全く豆が焼けてこないので、20秒停止してから1回まわす方法に切り替えたら豆が焼けてくるようになった。2時間ずっと手を回し続ける必要は無いので筋力的に疲れることはない。精神的には飽きてくるのでダメージあるけれども。
それと、豆がハゼない。ハゼないのでガスに比べると焙煎後の豆は膨らみ方が小さい。それで味に癖がないのかもしれないが、とにかくも1ハゼも2ハゼも無く豆に色が付いてくるので、音や臭いや煙の量で焙煎の状態を予測することが出来ない。たびたびロースターを下ろして豆を出して見ないといけないので、これが思いの外、面倒くさい。
おそらく2時間掛かる最大の敗因はサンプルロースターを使ったことではないかと思う。焙煎中に豆を転がしてやらないと焼きムラが出来てしまうので何らかの方法で豆を転がす必要はあるのだが、電熱の場合、それがサンプルロースターのように空間で回転させる方法ではダメなのだ。ロースターではなくグリル鍋的な、電気コンロに乗せるなら鉄鍋のように底が平面でより確実に熱源に接触した状態で、木べらなどで豆を転がしながら焼けば多分上手くいくと思う(もうやらないけど)。
電熱で焙煎した珈琲の豆の味はガス式とは全く違った味になるので、一度は挑戦してみても悪くないと思う。ただし、やるときは使用する器具の選択を十分吟味するように。
しばらくツイートを休む事にした話
No.
55
:
Posted at
2023年07月04日(火)
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き
イーロンマスクがTwitterを買収してから金策のために迷走(基本的には暴走)を続けているのはご存じの通りだが、いよいよ閲覧数制限という手段を用いることにしたとのこと。
まぁ、私自身が職場の金策のためにクビになったり、そこまで大ごとでなくても、ネットサービスは登録や加入するも結局は業者が迷走して退会に至ることは何度も経験しているので、迷走で被害を被ることそのものには多少とも慣れている。と思う。
閲覧制限についても、最初にニュースで見た時には自分の使い方であれば閲覧数上限に達する事は無いなと気楽に思っていたのだが、ハッシュタグを辿って他の人のツイートを読んでいると意外にすぐ制限上限に達してしまう人が多いらしい。
私のタイムラインは割と地域ニュースと気象情報が多目なのだが、それを見ていて、ふと気付いた。どうでもいいツイートのせいで貴重な情報ツイートが押し出されてしまう状況は有るのかもしれないな、と。それに気付いたら、急に、自分のツイートも、もしかしたら誰かのタイムラインから線状降水帯による地域避難情報なんかが押し出されてしまう原因になる可能性はあるわけで、その申し訳無さが、自分の中でえらく大きくなってしまい、この申し訳なさを解消するためにはツイートをしない事が一番じゃないのかという結論に至る。
Twitteの閲覧制限が撤廃されることはまず無いだろうという気はしているが、Twitterを利用するほとんどの人が問題ない程度まで閲覧数の上限が上がったら、またツイートしようとは思っている。それまではしばらく休んでみようかな、と。
ちょっとした気付きをツイートしたいという気持ちがゼロになる事は無いと思うが、申し訳なさのストレスは結構大きく、ストレスを感じながらツイートをするよりはツイートしない方を優先したほうが精神的には安定するのではないかと思う。
もっとも、ちょっとした気付きを書き止めておくだけなら、他人の目につく可能性が極端に低くなる以外はこのブログでも問題は無いわけで。ツイッターとの違いは、サーバ料が払えなくなったら消滅してしまうことくらいか。
イーロンマスクがTwitterを買収してから金策のために迷走(基本的には暴走)を続けているのはご存じの通りだが、いよいよ閲覧数制限という手段を用いることにしたとのこと。
まぁ、私自身が職場の金策のためにクビになったり、そこまで大ごとでなくても、ネットサービスは登録や加入するも結局は業者が迷走して退会に至ることは何度も経験しているので、迷走で被害を被ることそのものには多少とも慣れている。と思う。
閲覧制限についても、最初にニュースで見た時には自分の使い方であれば閲覧数上限に達する事は無いなと気楽に思っていたのだが、ハッシュタグを辿って他の人のツイートを読んでいると意外にすぐ制限上限に達してしまう人が多いらしい。
私のタイムラインは割と地域ニュースと気象情報が多目なのだが、それを見ていて、ふと気付いた。どうでもいいツイートのせいで貴重な情報ツイートが押し出されてしまう状況は有るのかもしれないな、と。それに気付いたら、急に、自分のツイートも、もしかしたら誰かのタイムラインから線状降水帯による地域避難情報なんかが押し出されてしまう原因になる可能性はあるわけで、その申し訳無さが、自分の中でえらく大きくなってしまい、この申し訳なさを解消するためにはツイートをしない事が一番じゃないのかという結論に至る。
Twitteの閲覧制限が撤廃されることはまず無いだろうという気はしているが、Twitterを利用するほとんどの人が問題ない程度まで閲覧数の上限が上がったら、またツイートしようとは思っている。それまではしばらく休んでみようかな、と。
ちょっとした気付きをツイートしたいという気持ちがゼロになる事は無いと思うが、申し訳なさのストレスは結構大きく、ストレスを感じながらツイートをするよりはツイートしない方を優先したほうが精神的には安定するのではないかと思う。
もっとも、ちょっとした気付きを書き止めておくだけなら、他人の目につく可能性が極端に低くなる以外はこのブログでも問題は無いわけで。ツイッターとの違いは、サーバ料が払えなくなったら消滅してしまうことくらいか。