猫田に小判 -新館 -

Last Modified: 2024/04/14(Sun) RSS Feed

No.62

直ぐに出来る事が才能ではないという話

No. 62 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

教育実習で薄々感じてはいたが、教員採用試験でグループ討論というのがありグループになった面子を見ていて、やっぱ、自分は教員という職業には向いていないなと確信して30年位。
だが、教員にはならなかったが、陶芸だの金継ぎだのを30年間教える仕事は続いていたりするのだから不思議なものだ。

そんな30年間で思うのは、才能というのを勘違いしている人は非常に多いという事。
大抵は、聞いて直ぐに物事が出来る事が才能だと思っている人が多い。
しかし、教える側から見ていると、直ぐに出来るのは『得意』であって『才能』とは別である。

人には成長曲線というものがあり、成長曲線は必ずS字になっている。要するに学び始めと同時に少しずつ技術や知識の上達が始まり、ある時点から急に上達が加速するようになるわけだ。
この上達の急激な加速までが短期間だった場合、それを『得意』と言う。得意というのは本人の好き嫌いとは関係なく存在する。好きで得意が理想ではあるが、嫌いでも得意な場合はあり、そういう人は嫌そうな顔をしながらも仕事で成果を出したりする。だが、それは才能ではない。

才能のというのは、、成長曲線の上昇が始まるまで、言い換えると成長の加速がかかるまで「続けられる性格」を言う。と私は解釈している。
人間は続ければ、成長の加速は必ず起こる。つまり、才能というのは誰にでも有るものなのだ。
得意と才能が偶然に一致すると天才とか非凡な才能と言われたりするのだが、時間が掛かっても加速が始まるまで続けている人は、その事への才能があるのだと思う。だが、加速が始まるまで続けられる人間は意外と少ない。才能が無いとは成長が加速するまで待てなかったことを言う。
更に残念な事だが、大体の世間様は成長が加速し始めてからしか注目しないので、加速までの時間を考慮しない。それが余計に得意と才能を混同させてしまっている。

ものを教える人に一番大切なのは、成長が加速するまで付き合えるかどうか。才能が起こるまで待てるかどうかではないかと思う。
教え方が上手いと、成長が加速するまでの期間を多少短縮させたりすることは出来るが、教え方の上手さは、待てるかどうかに比べると比重は高くないと思う。

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