猫田に小判 -新館 -

Last Modified: 2024/04/14(Sun) RSS Feed

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#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #陶芸 #縄文時代

さくら市ミュージアム荒井寛方記念館でやっている「栃木縄文の夏5000年前の土器世界」が8月27日までなので行ってきた。

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なんとなんと、ガラスケースに入っていない縄文土器が至近距離1cmで鑑賞できるという、これはもう触っているのと同じくらいなので(もちろん触ってはいません)、鑑賞というより完全に観察である。
メインは縄文中期の土器で、その他に翡翠とか石棒などもあった。

そういうわけで、目からレーザー光線を出して穴が開くほどの近距離で分析してみて分かったが、縄文人の土器の仕上げのテクが半端ない。造形美ばかりが注目されるが、実はそれ以上に根本的な陶芸の技術力は物凄い。全く手を抜いていない。中でも凄いと思ったのは器の腰の仕上げと内側の作りの完璧さだ。

よく縄文式土器を作ってみようというワークショップで底を平らにして紐積みで形を作るが、あの方法とは明らかに違うというのはハッキリした。縄文土器、全部と言って良いと思うが、腰の角の面取りが完璧にされている。ワークショップの方法だと確実に腰に角やバリが出る。それが無い。綺麗に面を取った上に撫でつけて丸みを持たせている。小さいものならさておき、50㎝級の大型土器で、しかも口辺に精緻な飾りが付いているものでも腰の仕上げがされている。このサイズを上まで作って半乾きになるまで待ってから逆さにして腰を仕上げるのはどう考えても無茶なので、口を作る前に一度逆さにして仕上げるか、最初から腰を丸く仕上げておくしかない。が、腰を丸くした時点で安定性は悪くなるから、その後にバランスを取りながら左右対称で口辺まで積み上げて装飾を綺麗に作るのは難しい。現代のように大型のロクロでもあれば別だが、今のところ、ロクロのような道具は見つかっていない。

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次に内側の仕上げの美しさだ。こうした形状の内側を仕上げる場合、今の感覚なら縦長の形状(特に土器下部のような形状)は下から上に撫でて平滑面を作っていくと思うが、見える範囲で覗き込んでみたがどれも下から上に撫でた形跡が無い。
更に驚くのは、あれだけ砂目の土を使っていながら、砂で引っ掻いた跡が見当たらない。シャモットや長石粒を入れた粘土を使った時には、仕上げで表面を綺麗にしようと少し乾き始めた状態で撫でつけると、粒が浮いて引っ掻き傷が出来るのだが、縄文土器には引っ掻き跡らしきものがほとんど見当たらない。撫でずに仕上げる方法があるとしたら、叩きを入れることになるが、そうすると須恵器のように内側に青海波文という叩いた道具の跡が残るはずだ。しかし、叩き跡も無いし、そもそも形状的に叩いて仕上げるには無理がある。

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他にも、外に比べて内側の炭化が強過ぎる器は煮炊きで使われたとは考えにくいとか、どう見ても上下逆にした方が自然な用途に感じられる形状があるとか、いろいろと疑問は沸きまくるのだが、それは長くなるのでまたの機会にして、今回は、仕上げに関する予想を、一応、書いておく。

まず腰の仕上げだが、以前から上下に伸びる筒(正確には逆円錐台)と、円に広がる椀形は、異なる方法で制作され、両の形を仕上げてから接着したのではないかという想像はしていた。重力に逆らってあの形状を下から上に一気に作っていくにはかなりの無理がある。
だが、前回の尖底土器は土を掘って雌型にしたのではないかという話の逆で、土を盛り上げて凸状の雄型を作り、それに粘土を巻いていけば比較的安定した円錐台形を作ることが出来る。雄型で形を作る場合、長時間粘土を乾かしてしまうと乾燥収縮でヒビが入るため、そこそこの乾き具合で型から外し、別に作った鉢の底を抜いて合体させたのかもしれない。こうすると腰の丸みの仕上げをすることは難しく無い。
同時期の縄文土器を一度に見て感じたのだが、下半分は案外似た大きさの物が多い。作り方が板づくりではなく粘土紐を巻き上げて表面の継ぎ目を消す方法で作ったことは、破損断面の高解像分析から確実らしいので、それを考慮すると、上部の大きさがやたら違うのに、下部は厚みや長さが多少違っても、大体、似た太さとなってくるのはおかしなことではない。

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次に、内側の仕上げについてだが、滑らかさから考えて、手以外に皮や布、木材などの道具を使っているかもしれないというのは予想出来る(木材は引っ掻き傷が出やすいので、皮か布になるが)。
だが、それで撫でたにしても綺麗すぎる。そこで非常に興味深いテクスチャの土器を見つけ、それが仕上げ方の予想に繋がった。

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表面に貫入のような細かいヒビが出ているのが分かる。貫入の場合は窯が冷める時に素地と釉の冷却収縮差で生じるのだが、この写真のヒビは恐らく焼成後の冷却で生じたものではない。似たような状態になるのは、素地の乾燥が進んだ状態で上に粘土質が多目の化粧土を少し厚めに塗ると起こりやすい。乾燥収縮が進み、かつ、吸水性が高い素地に水分の多い泥漿を塗ると、泥漿の水分が一気に吸収され乾燥収縮することで、こうしたヒビヒビが現れる。
つまり、縄文土器の内側は、形を作った後に泥漿で仕上げ塗りをしている、または、水を含ませた布で泥状になるまで内側を拭いていると考えられる。それであれば、砂目の多い素地でも、表面の引っ掻き傷は少なくなる。私も陶胎漆器を作る時、赤土を塗って布で拭くと表面が滑らかになるのは経験している。本来はもう少し素地が湿っている状態で行えばヒビは出ない。写真の土器は素地が乾きすぎたけど、まぁいいかという感じで仕上げたら、なんかカッコイイヒビが出たからこのまま使おうとなったのかもしれない(あるいは、あまりヒビの有無は関係ない器の用途だったという可能性の方が高いか)。
ちなみに、この技法を更に緻密に仕上げると、紀元前500~200年頃の古代ヨーロッパの発掘品として出てくるテラシギラタという陶器の技法になる。まるで釉薬を掛けたかのような光沢感が生まれる。日本では常滑焼の朱泥急須が近いが、明らかにテラシギラタが用いられたと分かる器は残っていない。泥団子という子供の遊びでテラシギラタは残るのみとなっている。
もしかしたら、縄文土器の内側も元々はもっと光沢感があったのかもしれないが、流石に紀元前5000年の発掘品だと、いくら状態が良いとはいえ、テラシギラタの光沢感まで残るのは難しいのだろう。
とにもかくにも、泥漿による内側の仕上げがもし行われているとしたら、縄文人はかなり目止めやコーティングに関する知見が深かったと思われるわけで、なるほど漆や天然アスファルトを精製して塗るという作業が出来るのは必然なのだろう、と妙に納得してしまった。

〔 2787文字 〕 編集

#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き#陶芸  #縄文時代

縄文式土器というと縄文中期の火炎型がやたら有名なのは、形の面白さから理解できるわけだが、私は縄文初期の丸底や尖底土器というのがかなり昔から気になっている。
というのも、先が尖った安定しない器というのは現代の陶芸感覚からすると非常に作り難い。今の感覚で作り方を考えるとすれば、粘土を山形に固めて少し乾かして先端が乾き始めたら中を削り、ひっくり返して口の方を作っていくというのが最も効率的なのかもしれない。なので結果的には外を先に仕上げる事になる。私自身は、ずっとそうやって作っているのだろうと考えていた。

しかし、ある時、気付いたのは、人間が土に穴を掘ったら半球や逆円錐形じゃね?という事。
つまり、尖底式土器は土に穴を掘り、その穴に粘土を付けて形を作ったのではないかという推測が出来る。

そもそも、縄文人は何故、焼いて固めた器なんてものを思い付いたのかという根源的なことを考えると、おそらく粘土質の土地を雨上がりに人が歩いたり、更に雨が降ったりして大地にくぼみが出来る。そこが干上がって土が乾き、どこかの誰かが、この乾いた土の形って良い感じの容器になるんじゃね?と思って火にかけてみたら硬くなったとか、あるいはそうしたくぼみで火をたいた後、偶然に土器になっていたのを見つけたとか、恐らくそんなところだと思うのだ。

ということは、土器はまず最初、大地を窪ませる、つまり穴を掘るところから始まっているはずだ。動物捕獲用の矢じりがついた矢みたいなものでカツカツと大地を掘ったら尖底土器の形になるはずで、ここに泥に近い柔らかい粘土をペタペタと塗っていき、ある程度乾かしたら粘土を付け足して口を成形した後、ゴソッと抜いて伏せてから外側を仕上げる、みたいな。最初はそんな感じで土器を作っていたのではないだろうか。

そのうち、土を掘るの面倒だから、もう少し粘土を乾かして可塑性出すようにすれば穴掘らなくても器作れるんじゃね?という事に気付いた人が、今度は穴を掘らずに地上で器の形を作ることを考え出して、底が平らな土器が主流になっていく。そういう流れだったんじゃないかと思う。

なので、尖底土器と、底が平らな土器では、極めて大きな技術革新というか思考の変化があったりすると思うのだ。
尖底土器は、もっと、どうやって作ったのかを深く推測する必要があると思う。縄文人の思考の根源に辿り着けるはずだから。

〔 1049文字 〕 編集

#徒然なる日記 #金継ぎ

カッテージチーズの成分に脂質が有るのは脱脂粉乳から精製したとしても元が牛乳だという事を考えれば完全に除去するのは難しいんだろうし、食った時にも全く無いと旨くないんだろうと納得できるわけだが、カルシウムはどうなんだろうかと思っていたら、リン酸カルシウムがカゼインミセルの核なのは知っていたが、実はカゼインミセルが凝集して大きな塊になるにもカルシウムが必須なんだそうな。
カルシウムは、カゼインを沈殿させて取り出すために必要不可分という事なのか。無茶苦茶納得した。

〔 271文字 〕 編集

#徒然なる日記 #金継ぎ

金継ぎが世界的に取り上げられているとか、日本文化は物を大切にする文化だとか、日本の景色という美学は素晴らしいとか、世間で語られる99.9%は恐らく擦り倒された金継ぎ美談である。
これには見た目だけでなく内容にまで映えを気にする昨今の事情や、日本賛美を聞いて気持ち良くなるという日本人のオナニー好きが根底にあると思っていて、正直、そういう話はもう止めてくれないかと個人的には思っている。

今の金継ぎ解説は、あくまでも金がカジュアルに購入できるという時代からの視点であって、そもそも、何故、器を直す必要があったのか(直さなければならない事情があったのか、と言い換えても良い)、金という貴重な資源を使う必要があったのかという根本的な問題について、当時の御恩と奉公という武家社会の世情をきちんと考えた上から記されたものではない。

よく金継ぎの話は侘び寂びの範疇で語られたりするが、本来、千利休が目指した侘び茶は、虚飾を排し極限までありのままの単純化を繰り返し、そうした物と向き合う事で精神の根源に行き着くという哲学であって、だからこその「侘ぶ」なのであろう。当時の金が持つ意味合いや重要性からしても明らかに金と侘びは相性が悪い。そう考えると果たして千利休は茶碗に施された金を景色として見たのか、金であることを良しとしたのかも甚だ疑問である。もし百歩譲って金継ぎがアリだとしても、それは、見えてはいるが無いものとして扱う金(どの色にも属していない、つまり傷は無いという暗黙の了解)であり、景色として鑑賞する意味合いは無かった。かもしれない。

個人的には、始まりの頃の金継ぎは、取り繕いとしての結果であって、金継ぎの意味合いが詫び寂びに組み込まれたのは、利休死後かなり経過してからで、織部の頃よりも後、詫び寂びがかなり形骸化し、侘び寂びは解釈の仕方で各人が自由に定義しても構わないという意識が広まってからではないかと考えている。さらに現在の「勿体ない」と金継ぎが結び付くのは、おそらく昭和に入ってから(戦後もだいぶ過ぎて平和になってから)だろう。

物を直して使い続けるという習慣は決して悪いものではないと思うが、そのために金継ぎを歴史の美談として扱うこと、殊更それを日本の美徳とすることは、どうも懐疑的である。というか、正直、あまりにも商業主義的に走り過ぎた解説だけがあふれかえっていると思う。もっと冷静に金継ぎの歴史を検証し、語るべきではないだろうか。

〔 1068文字 〕 編集

#徒然なる日記 #珈琲 #どうでもいい思い付き

修理でご贔屓頂いているお客様から、ミルカフェ(Mille Cafe) というデンマークのポリプロピレン製ドリップフィルタを頂いた。1000回ドリップできるフィルタで、紙を無駄にしないからエコらしいが、そのぶん洗浄で水を多めに使うのでエコかどうかは懐疑的だが、そこは置いておくとして、試しに使ってみたら珈琲のフレーバーが一段上になるというか、この豆ってこんな味だったのかと驚いた。ペーパードリップの際には、紙の臭いがしないという酸素漂白のアバカ珈琲フィルタを使っていて結構満足していたが、ミルカフェと比較してみると、やっぱり微妙に紙の感じが珈琲に影響するというか、かなり珈琲の旨い部分を削られてしまっているように思う。

ところで、バリスタ世界チャンピオンの粕谷哲さんのYoutubeで蒸らし無しの一投式ドリップ というのを紹介していて、やってみたところ複数回に分けてお湯を注ぐ方式と味は違うけれど、これはこれで非常に旨い。そして何より朝に眠気眼でやるには丁度良い手順だったので、最近はずっと一投式で入れていたのだが、ミルカフェでも出来るかなとやってみたら、これがかなり旨い。

更に、一投式は複投式に比べると少し味が軽めなになるのだが、お湯を入れてステアしてみたらどうかなと気付いてやったら、一気に味が複雑になって重みが出た。無茶苦茶旨い。
というわけで、今は、ミルカフェに細挽きの粉を入れて、既定のお湯を一気に注いだ後、スプーンを3回軽く上下させてステア。という手順で落ち着いている。

〔 696文字 〕 編集

良い話は好きになれないという話

No. 67 :
#徒然なる日記

ゴーストバスターズのような成り上がり映画は好きだ。ロッキー1のように最後は負けてしまうけどそれまでにカタルシスがある映画も好きである。
作り物の話だけでなく、もうこの世に存在しない人や物がどうやって世間に認知されるようになったのかという実話や成功譚も好きなのだったりする。

だが、今がんばっている人が認知され成功譚として紹介されている話というのは、どうしても好きになれない。
具体的に言うと、私はラジオが好きなのだが、ニッポン放送のラブ&メロディーの10時のグッドストーリーというコーナーや、TOKYO FMのSUNDY'S POSTという番組内容はどうにも好きになれないところがある。
理由は複数考えられるが、1番は、現在進行形の成功譚は運が良かった話であるはずなのに、やたら原因と結果と必然をワンセットで語ろうとするところにある。言うなれば、針の上でバランスを取っている〝やじろべえ〟のはずのものを、針の上ではなく大ステージの上に置いてスポットライトを当ててしまっている違和感ではないかと思う。

無論、この歳になっても、んなことを考えずに素直に感動してやれない自分は小さいやつだし、ひねくれ者だよなという事は理解していて、だから世間とズレたままなのだろうなぁと思っていたのだが、最近、そう思っているうちは気持ちが無意識に生き続けようと考えている事なのかもしれないと気付いて、まぁ、このままの自分で良いかと思うようになった。
たぶん、良い話に感動し始めたら生命エネルギーが枯渇していて、そろそろヤバい状態だということなのかもしれない。このブログで良い話に感動したという発言が増えた時は、そろそろ脳が思考停止して人生末期症状だなと考えて頂いて間違いないと思われる。

〔 760文字 〕 編集

練り込みには茹で卵カット器が良いという話

No. 64 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き #陶芸

夏休み子供自由研究で陶芸講座をお願いされた。普通に皿を作るだけで良いみたいなのだが、自由研究という冠が付いているので多少は研究の跡が残りそうな作陶はないかと考えて、簡単な練り込みをやってみようと考えた。
練り込みで一番面倒なのは、同じ幅で粘土をカットする工程で、セオリーだとタタラ板と切り紐を使うのだが、そうなると結構大掛かりだし無駄も多く、更に子供には難度が高い。

で、何か良い方法はないかと考えていて、茹で卵を等幅にカットするやつが使えないだろうかと閃いた。
100均で探したら、丁度いい大きさで、しかもカットの網の部分が簡単に外れる作りだったので、これは良いと思い購入。試しにやってみたらバッチリ7ミリで7枚切り出せる。子供が作る大きさの器であれば、これで何回かやって切り出せばばっちりではないか。

茹で卵カット器は、もっと練り込みで流行ってもいいと思う。あ、流行る前に買い込んでおこうかな。
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〔 450文字 〕 編集

せっかちは性格ではないという話

No. 63 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

せっかちと言われて落ち込む人がいるが、せっかちは生来持っているものではない。つまり、せっかちは直せない性格ではなく後天的に修正可能なものなので落ち込む要素にはならない。だが、直し方をちゃんと伝える人間が少ないので、言われると落ち込むようだ。

「せっかち」の対義語は「のんびり」ではなく「気が利く」である。対となる要素は、先読みの精度だ。精度が低いとせっかちと言われ、精度が高いと気が利くと言われるようになる。
つまり、先読みの精度をあげるようにすれば何も問題はない。

先読みは、何も遠い未来を予言するような大それたものである必要はない。まずは1秒先が読めればいい。これだけでも状況はかなり変化する。1秒先が読めないのに10
分先を読もうとするからせっかちになる。現状を注意深く観察し、何が必要になるかを予測する。間違った時は、反省する前に、より精度を上げるには何が必要かを考える。それを何度も繰り返していって、5秒先まで高精度な読みが出来るようになれば、間違いなくせっかちと言われることはない。言われないだけではなく、気が利くと言われるだろう。

〔 512文字 〕 編集

直ぐに出来る事が才能ではないという話

No. 62 :
#徒然なる日記 #どうでもいい思い付き

教育実習で薄々感じてはいたが、教員採用試験でグループ討論というのがありグループになった面子を見ていて、やっぱ、自分は教員という職業には向いていないなと確信して30年位。
だが、教員にはならなかったが、陶芸だの金継ぎだのを30年間教える仕事は続いていたりするのだから不思議なものだ。

そんな30年間で思うのは、才能というのを勘違いしている人は非常に多いという事。
大抵は、聞いて直ぐに物事が出来る事が才能だと思っている人が多い。
しかし、教える側から見ていると、直ぐに出来るのは『得意』であって『才能』とは別である。

人には成長曲線というものがあり、成長曲線は必ずS字になっている。要するに学び始めと同時に少しずつ技術や知識の上達が始まり、ある時点から急に上達が加速するようになるわけだ。
この上達の急激な加速までが短期間だった場合、それを『得意』と言う。得意というのは本人の好き嫌いとは関係なく存在する。好きで得意が理想ではあるが、嫌いでも得意な場合はあり、そういう人は嫌そうな顔をしながらも仕事で成果を出したりする。だが、それは才能ではない。

才能のというのは、、成長曲線の上昇が始まるまで、言い換えると成長の加速がかかるまで「続けられる性格」を言う。と私は解釈している。
人間は続ければ、成長の加速は必ず起こる。つまり、才能というのは誰にでも有るものなのだ。
得意と才能が偶然に一致すると天才とか非凡な才能と言われたりするのだが、時間が掛かっても加速が始まるまで続けている人は、その事への才能があるのだと思う。だが、加速が始まるまで続けられる人間は意外と少ない。才能が無いとは成長が加速するまで待てなかったことを言う。
更に残念な事だが、大体の世間様は成長が加速し始めてからしか注目しないので、加速までの時間を考慮しない。それが余計に得意と才能を混同させてしまっている。

ものを教える人に一番大切なのは、成長が加速するまで付き合えるかどうか。才能が起こるまで待てるかどうかではないかと思う。
教え方が上手いと、成長が加速するまでの期間を多少短縮させたりすることは出来るが、教え方の上手さは、待てるかどうかに比べると比重は高くないと思う。

〔 965文字 〕 編集

#徒然なる日記

TOHOシネマズに行く時、ベルモールの前で信号待ちをしていたら、たまたま試運転中のライトライン(LRT)に出くわした。

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話には聞いていたが、急に視界に入ってきたので超ビックリした。というのも、ライトラインめちゃめちゃ静か。ベルモール前が停車駅なので、スーッと来て停車してスーッと出ていったのだが、殆ど音がせず。私が車の中に居るからというのもあるが、それでも電車のようなガタンゴトン感は全く無い。リニアモーターかと思うほど。私は鉄道関係には殆ど興味ないのだが、それでも車の真横に最新の電車が来ると多少は興奮するわね。

話変わって、ベルモールの駐車場が知らぬまに最新式のカメラ認証型になっていた。
映画館で無料駐車券を貰ったので、帰りに出口で支払機に入れれば良いのかな?と思っていたら、駐車場の出口にそういう感じの機械は無くて、そのまま外に出てしまった。
え?無料券使ってなくね?と思い、このままだと無賃使用で後で何か催促が来たら怖いので、もう一度ベルモールに戻って車を止めてウロウロしていたら、建物の出入り口の中に精算機が有るのを発見。あー、ここで精算するのか、と精算開始をタッチしたら、車のナンバーを入力してくれとの事。入力してみたら、「この車で良いか?」と写真が表示される。えー!いや、確かに私の車だけども、どこから撮ってんの?すげぇ、カメラで車のナンバー読み取って記憶してんのかぁ。取り敢えずOKをタップして、無料券のバーコードを読み込ませたら精算完了になった。
このだだっ広い駐車場に止まっている車、全部、こうやって記録しているのも凄いが、そこからナンバー拾って精算機で表示する速さたるや。AIすげえ。

いやぁ、精算せずに帰らず、戻ってきて良かったよ。というか、これ、明らかに知らない人は支払いせずに帰るよな。誰も教えてくれないし。怖っ。

〔 813文字 〕 編集

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