駄文、書き逃げ

流石に3月半ばから更新が止まっているのも何なので、ふと思ったこと2つを、ちょっと短めで。
1つめ。
人間、生き続けていくというか生き残っていくための方法は、極論的に2つしかない。1つは「我慢する」。もう一つが「楽しむ」。
どちらか一方だけなのが、たぶん理想だ。居心地の良い方を一つ選べるのは幸せなことだ。楽しいと思うことを続けられたら幸せだと思うし、我慢を続けることに自惚れ出来るなら我慢し続ければいいと思う(意識的にせよ、無意識的にせよ)。
だが、実際には、たぶん、どちらか一方だけというのは難しい、はず。なので、どちらに比重を置くか、分岐点で選択が必要になったときに、どちらを選択の指針にするか、として考えるのが良い塩梅なのではないかと思う。
今の私は、どっちかというと楽しいことが多い方が良いと考えている。だが、楽しいことが好きであるかどうかは難しい。好きなら持続が可能になるので好都合だが、そうそう好きという感情が続くわけではない。好きは案外、脆いものだ。
よって、最終的に重要なのは好きでないものを「好きに変える方法論」。どんなものでも、好きになれる方法が分かれば、生き続けることはたぶん楽しい。好きにはなれなくても、嫌いで居続ける必要がない状況にはしたい。
今のところ、その最も即効的な方法は、よく見ることだと思っている。好きじゃないものというのは、大抵よく見ていないか、よく見ていると思い込んでいて情報量が不足していることが多い。フィルタを外してじっくり見て情報を増やす。つまり、好きは観察の量的な問題に変換が可能なのだ。
好きじゃないなぁと思ったら、どんな情報が少ないのだろう考え直すと、案外、心底好きじゃないものというのはそれほど多くないことに気付く。
2つめ。
人生において逃げることはダメなのか問題。
昔から、逃げちゃだめだと言われるが、私は何故に逃げてはいけないのかという理由が分からなかった。理由が分からないものは、ダメだと定義づけてはいけないと思っているので、逃げてもいいもんだと考えている。
だが、逃げることには、2つのケースがあって、それによってイイとかダメがあるのかもな、と考えを切り替えた。
ポイントは、ネットワークの数だ。つまり数量の問題だ。ネットワークを形成する逃げは良し。ネットワークが形成できない逃げはダメ。たぶんそういうことだ。
例えば10のネットワークがあって、何らかの外的不都合なり、自分の気持ちの問題なりで、そのネットワークが減ってきたとする。そういう時には逃げた先で新しいネットワークを10に出来れば、逃げることは関連性の変化という要素を含むことになるので、これは推奨すべき逃げ。
だが、10のネットワークの減少に伴って逃げた先で、ネットワーク数が増えないような場合は逃げちゃダメになる。どんどん減って最後にネットワークが無くなってしまうと、逃げたことのメリットが生まれない。
だから、ネットワークを変化させる目的があっての逃げはOK。ネットワークを閉じることを目的とした逃げはNo。ということになる。
変化を求めるなら、人は、どんどん逃げればいい。そして逃げた先で、どんどん新しいネットワークを作ればいい。ネットワークは広大だ。無限と言ってもいいかもしれない。

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