「守破離」の意味を考える

何を今更、とツッコミが入ると思うが、今年最初のブログ更新なので「あけましておめでとうございます」。実は、年が明けてから、今年はどうした?というほど仕事が立て込みだして、有難いやら涙目やら。という現状報告をしたところで、さて本題。
そんなわけで、いろいろと仕事の話を頂いているなかの一つに陶芸の講座がある。大抵は社会人対象の講座なのだが、今回、頂いた話は学生が対象。単発での講座は何度かやっているが、長期の契約は初めてということもあり、さて、どういう流れで講座を組むべきかと頭を悩ませる。あれこれ考えている最中に、あぁ、なるほどそういう意味なのか、と気づいた事があるので書いておこうと思う。
古来からの技術教授に「守破離」という思想みたいなものがある(おそらく企業の末端に至るまで浸透しきった日本人的思想と言っても良いくらいだと思うが)。守破離は、世阿弥が最初だとか川上不白が最初だとか諸説あるようだが、一番古いのは仏教の釈迦の教えを書物にした人だと思う。まぁ誰が言い出しっぺかは研究者に任せるとして、この守破離については、概ね「まず師匠の言葉を忠実に守り、次に師匠の言葉を破って自分の視点で考え、最後はそれも凌駕して新たな境地に達しなさい」という進行順序を表していると解説が付く。読んで字の如しの解説だから、まぁその通りなのかもしれないが、私がここで気になるのが「守」。この解説だけを見ると、今どきの考え方では、明らかにパワハラというか洗脳の第一段階みたいな風に受け取れる。中年オヤジの私がそう感じるのだから、たぶん、ゆとり世代も同じように毛嫌いすることだろう。現代はハラスメントや洗脳は、距離を取るよりも攻撃して叩き潰すことを主眼にする人が多い時代だ。それくらい嫌われている。
叩き潰すのはさておき、では、昔はハラスメントや洗脳に抵抗を感じる人間が全く存在していないから守破離がまかり通っていたのかと考えると、そうとも思えない。多少の我慢強さの違いこそあれ、昔の人だって今の人と同じように嫌なものは嫌だったに違いない。だとしたら、どうして「守」に厳守という意味が付加されたのか。その疑問を突き詰めてみて、実は「守」というのは本来「言う通りに従う」という意味で受け取るべき言葉では無いのかもしれない?と思うようになった。
では何か。そこで、今一度、技術教授の方法論という観点から守破離を考えてみる。
技術には「失敗」と「成功」が付き物だ。失敗と成功を繰り返すことで、そこから新しい技術が生まれることがある。成功だけを繰り返しても、失敗だけを繰り返しても、新しいものは生まれない。これはおそらく未来永劫、変わることのない真理だろう。つまり、技術の進展は「失敗」「成功」「新生」の3タームで構成されている。因って、技術の教授には(言い換えると師匠が弟子に技術を教えるためには)、まず何よりも、この3タームの存在の認知という共通項が必要不可欠になる。
そこで守破離。前述の3タームと、この守破離を合わせてみると、これが実にぴったりと符合することに気付く。「守:破:離=成功:失敗:新生」である。もう少し解説すると、「守」とは「成功の方法の伝授」、「破」とは「失敗するケースの認知」、「離」とは「新技術の閃き」となる。あぁ、なるほどなぁ、と思わないだろうか?私は自分で気付いて目から鱗である。「守」は「言われたとおりにする」という弟子の姿勢(それは我慢と言い換えることもできる)を表しているというよりも、むしろ「こうすれば上手く行く」という教える側の誓守(誓守というのは私が勝手に考えた造語だが)や技術への姿勢が重要であり、同様に、「破」で弟子の失敗を受け入れる姿勢と忍耐、「離」で新生を喜び、弟子を送り出す勇気、という師匠の心構えの重要性を説いていると変換することが出来はしないだろうか。
こう考えると、現代の教授には、この教える側の気持ちの置き処が極めて希薄であるということが露わになってくる。守破離のベクトルを間違えるとパワハラが発生するという構図も見えてくる。
守破離を最初に誰が気付いたのかは不確かだが、おそらく、最初に言葉にした人にとってのそれは、教える側の心構えとして設定されたものではないかと思う。それが何処かで、何かの理由でベクトルが反転し「守」にトンデモない負荷がかかってしまい、その負荷は時が経つに連れて膠着し、膠着したということに何の疑問も思わなくなった。そんな変化を感じることも出来る。
今年から始まる講座では、この守破離を間違わずに伝えよう。などと考えたりしている。たぶん、守破離を最初に気付いた人も、この目標には同意してくれるのではないかと勝手に思っている。

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