『風立ちぬ』の衝撃

宮崎駿が監督したアニメでは二度目の放心状態になった。無論、この放心状態は凄いものを見て言葉が出なくなる放心状態を言う。感動の上を行く感覚だ。ちなみに一度目は30年以上前にみたルパン三世カリオストロの城である。子供だったこともあり一週間はポケーっとしていた。
カリオストロ以降、宮崎アニメは基本的に好きなだが、面白くないわけではないが面白いとも言いがたいという感じで、特に、千と千尋の〜以降は打ち切りアニメのような力技な話の纏め方には少々辟易していた感がある。
だが、『風立ちぬ』である。これは間違いなく宮崎アニメでもトップクラスというかトップの傑作だろう。美しい夢を追い求めることの残酷さと悲しさ、仕事と愛の関わりあい、貧富が生まれる社会構造など、重くそして重層的なテーマが複雑に組み上げられ、それを体現していくリアルに人間的なキャラクター達。
そして何よりも驚いたのはゼロ成長という、これまでにない宮崎アニメの主人公像である。庵野秀明監督を声優として起用したことには賛否あるようだが、少なくとも私は、ゼロ成長の(つまり、悪い意味で不動であるという)人間性の表現として「棒読みのド素人の声」を使ったことは極めて高く評価出来ると思う。それが庵野秀明であったことに若干の疑問がないわけではないが、時間やコストの問題とか諸々の事情はあるのだろう。
それはともかく、全てを語り尽くすのは無理なので、私にとっての衝撃のラストシーンについてのみ書こうと思う。なお、これはネタバレになるので未見の方は読まないことをお勧めする(ま、知っていても、べつに映画の面白さが半減してしまうことはないと思うが)
零式戦闘機のプロトタイプ飛行成功に湧く開発者の中で、風を感じながらボーっとする主人公堀越次郎のシーン(当然、文脈から飛行成功と同時に妻の菜穂子が絶命したと読み取れるわけだが)から一転、焼け野原と化した日本、そして墜落炎上する零式戦闘機の間を一人歩いていく次郎。その先で緑の丘の上に立つカプローニが現れることで、これが次郎の夢の中であることが分かる。カプローニの「国が滅んでしまったからね」というセリフから、日本は、無条件降伏し、まだ米国の占領下にあり、もしかしたら分割統治の道を歩むことになるかもしれない危うい時期だということが暗示される。君の人生はどうだったのかというカプローニの問に対し「最後は散々でしたけどね。一機も帰って来なかった。」という次郎の答え。国でもなく人でも戦争でもなく、彼には飛行機が帰って来なかったということが人生の最上位の懸案であることが分かる。
そして、登場する妻、菜穂子。美しい姿のまま彼の前から姿を消し、サナトリウムで孤独に死んだ菜穂子だが、彼の前に現れるのは当然、次郎が記憶している、傘をさし最も美しい若かりし頃の菜穂子である。彼を見上げて「生きて」という言葉をかける菜穂子。無論「(それでも)生きて(いて下さい)」という彼に対しての許しと絶対愛を含んだ言葉なわけだが、驚くのは、ここでの彼の行動である。安っすい映画であれば当然、丘の上から夢中で駆け下りる次郎、慟哭しながら菜穂子を強く抱きしめるが、それでも菜穂子は彼の胸の中でスッと消えてしまうという流れになるはずである(さらに安っすい映画なら、抱きしめたところでハッピーエンドで終わったりするのかもしれない。さすがにそれは安過ぎるが)。だが、宮崎駿はそんな生ぬるいラストシーンは作らない。「ありがとう、ありがとう」と念仏のように感謝を口にするだけで、次郎は丘を駆け下りるどころか、一歩も動かず丘の上に立ち顔を下げて菜穂子を直視することすらしない。何故なら、彼はゼロ成長なのだ。雪の降るサナトリウムのベランダで凍えながら彼を待つ菜穂子にも会いに行かない、手紙を出しても2行の時候の挨拶と自分の仕事の話しか書かない(手紙の内容は分からないが、画面には手紙の3行分だけは、あえて読めるようになっていたのと、その後の菜穂子の行動を見るとたぶん間違いない)、サナトリウムを抜けだした菜穂子を駅で見つけた時の第一声が「会えなかったらどうしようかと思った」と自分への心配を口にする、もちろん菜穂子を愛していることは間違いないが、ちょいちょいそういう行動を悪気なくしてしまう人間、それが次郎なのだ。菜穂子に心から感謝をしながらも、彼女に近付くことなく立ちつくすという矛盾を抱える主人公、堀越二郎。
そして、菜穂子は丘を上がる前に消えてしまう。カプローニの「行ってしまったようだ」というセリフ、風で転がる傘。出会った時には体を張って傘を受け止めた次郎なのに、もう、彼は傘を取りに行くことすらせず、ずっと丘の上に立ち「行ってしまった?」と一言発する。やがて「美味しいワインでも」というカプローニの誘いに丘を降りていく二人の後姿で映画が終わるわけだが、この最後の瞬間、次郎はちらっと周りを見る仕草をする。何の説明も無いのだが、私が思うに、おそらくこれは「菜穂子は何処へ行ってしまったんだろう」もう少し拡大解釈すると「どうして菜穂子は行ってしまったんだろう」という次郎の心情から出た行動ではないかと思う。そう、最後の最後まで次郎は美しい菜穂子が何故、丘の下で消えてしまったのかが理解できていないのだ。それが次郎の持つ純粋さであり人間性なのだ。じつに美しく、何という残酷で切ないラストシーン、そして何という人間描写。画面は一瞬暗転し「堀越二郎と堀辰雄に捧ぐ」という白抜きの文字が出た後、松任谷由実の名曲「ひこうき雲」と共に彼が生活した場所の美しい風景、それも全く人が出てこない風景が次々と映しだされて終了する。
もう、このラストシーンだけでも普通に涙腺決壊するだろう?次郎の抱える矛盾と生。実は人間が抱える根本的な問題でもあるという宮崎駿のメッセージではないかと思った瞬間、私は映画館で、その深さにマジに涙を流した。もちろん、映画が終わって劇場が明るくなる前に涙は拭いたけども。それにしても、ここまで美しく切なく心に響く映画の終わりを作り出す70歳の宮崎駿。やはり巨匠。そして最高傑作に間違いないぞ。風立ちぬ。絶対にDVDかブルーレイ買う。