仕事選択の基準

陶器の修理というニッチで、どマイナーな仕事をしていると「好きでやってんの?」という質問をよく受ける。「何故、やっているのか」という質問であれば、それなりに回答は持っているのだが「好きでやってんの?」という質問については、未だ回答を持っていないため、通常は「よく分からないからやっているんですよねぇ。」と返すことにしている。茶を濁すつもりではなく本心なのだが、大抵は誤魔化したと思われるのか、それとも期待した回答を得られない失望からなのか、とにかく話は終了となる。
私は世間一般で言う就職活動(リクルート服を着て説明会という名の面接に行くような、あれ)をしたことはないが、大学の就活準備セミナーを受けた時には、「自分が好きな事をすればいい」という無責任な回答をよく耳にした。その時から、何故、そういう抽象的で何となく胡散臭いことを、さも分かったかのように言う大人が多いのかと思い続けている。
ちなみに、私は未だ、自分でやってきた仕事が好きだと思ったことは無い。完全否定する自信は無いので、意識化したレベルにおいては無いと言うのが正しいかもしれない。
そもそも「好き」とは何か。極めて抽象的に聞こえる単語を、この仕事を始める前に私なりに具体的に言い換えたらどうなるかと考えたことがある。その結果、好きとは「永続性があること」だと結論付けた。もう少しロマンチックな言い回しをすると「行動の事象において、永遠の期待を持つことが可能と判断したもの」となる。逆に難しい言い回しになってるじゃないか、というツッコミが聞こえてきそうだが、私にとって「永遠」というのはロマンチックの範疇なので、あぁそういう人なのね、と思って頂ければ有難い。この定義は、人、物に関係なく「好き」が生まれる多くの状況に於いて適切に作用するので、概ね正しいと自分では思っている。
話を戻すと、永続性、つまり、『放っておくといつまでも続けられること』が好きであることの絶対条件だ。余程の負荷がかからない限りずっとやり続けるであろうという意思決定がなされた場合において「好き」と言う抽象表現の使用が可能になるわけだ。(ちなみに、永続性が無いあるいは不明な場合は『好み(このみ)』が用いられることが多い。また、好きの反対「嫌い」の定義は、非永続性ではなく遮断性だろうと思うが、長くなるので、それはまた別の機会。)
そこで、仕事の話だが、「好きな事を仕事にする」は上記定義から「いつまでも続けられることを仕事にする」と言い換えることが出来る。最初から「長くやれ」という拘束有りきなのだ。これから何かを始めるのに、好きな事を仕事にするというアドバイスは如何に無茶な言い回しか理解できるだろう。無論、本当に好きなものがあるなら否定はしないし、始めたら持続させる事で力にはなるのは確かだが、特に不景気極まりない時代にあって、決断の要素として永続性を組み込むのは絵空事に近い(夢を語るのは決して悪いことではないが、特に好きも好みもない人間にとっては首を絞めるだけだろう)。
そもそも仕事というのは、他者のニーズによって成立し、ニーズに応えることでお足を頂くという相互関係だ。自分自身の嗜好によって続ける趣味事ならいざ知らず、嗜好で始めたことに需要があるかどうかは自分の判断だけで事前に解決できるものではない。予測は出来るだろうが現実問題として極めて難しい。無理にでも続けてニーズが生まれれば良いが、未来が不安な人間に対しては余りにも説得力が無く、加えて、それが仕事として成立する量に足りうるニーズになるかどうかの判断基準は概ねアドバイスする人間にも無いことが多い(有り余る財力があるとか、盤石な伝統産業などの特殊な状況を除いて)。
つまり、好きな事を仕事にするというアドバイスは、よほど好きが仕事足りえる特殊な状況下を除いて、これから仕事を始める人間にとっては解決に成り得ない。
では、仕事を決める基準とは何か。
それは「特異な事」ではないかと私は思う。得意ではなく「特異」。つまり、周りを見回して「似たようなものが無いなぁ」と感じることだ。世界に一つだけの花のような、そこまで壮大な話(というかむしろ盲目的な話)ではなく、とりあえずは自分の周り(友人、知人レベル)だけでもいいと思う。
私が修理の仕事を始めようと思った原動力としての理由は、以前に書いた「陶芸家に欠けている心構え」と「修理というニーズがどれくらいあるのか知りたかった」という理由なのだが、それを栃木で始めようと思ったのは、調べた限りで栃木には益子焼きを作る人は大勢いても、その修理を専門でやっている人が居なかったからだ。とりあえず県内では特異な事だからニーズが生まれる可能性は高いだろうという考えがあった。(国内には金継ぎ師と名乗る人がいることは知っていたが。)まぁ結果として県内よりも県外からの方が依頼が多かったわけで、人生とは実に分からないものである。
それはさておき、「人と違うことを見つけろ」と言われると、すぐに世界レベルで物を見て自信喪失をする人がいるが、大体において自分の考えたことには先人がいるものだし、現在においても「1/全人類」の確率で存在するものなど、余程の運を見方に出来ない限り、そうそうに見つけられるものではない。だから、最初はニーズが見えそうなところまで比較範囲を狭めて考えれば良いし(勤め人になるつもりの人は、最小範囲は職場内とか部署になるだろう)、それでも特異が無いという人は観察力の問題だと思うので、他人に相談して、良し悪しに関わらず自分の特異性を見つけてもらって、それに従ってみるのも手だろう。(それでもダメなら新たに特異を創造することになるのだろうが、それが出来るなら最初から特異な存在という鶏卵の話な感じがしなくもない。それを考えると長くなりそうなので今回は触れないことにする。)
「特異を仕事にする」その上で、始めたことに永続性が期待できそうなら、ゆっくりと好きかどうかを判断していくというのは、悪いことではないと思うのだが。
なお、最後にぶっちゃけると、陶器の修理を始めた頃は、好きではないというレベルではなく、本当に仕事が嫌いになることが多々あった。世界に一つしかない思い入れのある品物を直すという責任、自分の想像を超える破損状態に修理方法が分からないという知識と技術の無さ、そして、本当にこの修理で良かったのかという返却後の不安など、まぁ、おおよそ仕事をして心が落ち着いたと思えることなど皆無だったからだ。修理方法の難題については数をこなすことでそれなりに少なくはなってきたが、責任と不安については今も仕事を始めた頃と大差ない。特に年月を重ねて直した数が増えれば増えるほど、返却した物への不安も増えていくし、たぶん、見限られて再修理の依頼が来ないだけで実際に再破損している物もあるのではないかという気持ちは消えたことが無い。更に永続性という事で言えば、この仕事はとにかく視力と指先が勝負で、そのどちらかが落ちてくれば続けることは難しい(まだ手が震えるということは無いが、老眼による視力低下は実感として現在進行形だ)。早く、私の考えなど軽々と飛び越えて陶器の修理に革命をもたらす逸材が出てくれないかなぁと思ったりもする。その時には、何のためらいもなく私は全知識と技術を教えて仕事を畳む気持ちは常に持っている。だから、私は仕事を好だと言う日は来ないような気がしている。それでも、出来るところまで行きたいと思うのは、まだ、私のやっていることが特異だという希望があるからだ。

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