ファミレスにて(自由ということ)

私は一人でも平気でファミレスに入れる人なので、99.9%が個食である(残りの0.1%は3年に1回くらい弟と行くことがあるので)。当然、独りモクモクと食べているので近くの席の会話がダイレクトに耳に入る。その殆どは、どうでもいい会話なので聴く気もなく、取り敢えず早く食って外に出たいと思いながら食べているのだが、稀に少しだけ聞き耳を立ててしまうこともある。この前は、あえてゆっくりと食べて聞き耳を立ててしまった。
学生と思われる若人が「自由であること」について話し合っている。話合うというよりは暇つぶしがてらダベっているという感じなのだろうが、きょうび、そんな形而上的なことを口にする若者など居ないと思っていたので、ちょっと面白かった。
ただ、気になったのは、その語り口が結構、二元的な視点に始終しているというか、対極的な結論ありきで進んでいるところ。(おそらく仲の良い)友人同士の会話なので話の傾向が偏るのかもしれないが「自由=善」「不自由=悪」という前提がブレず、不自由許すまじな方向で話が進むのは残念だなぁと思ったりした。
ここからは私見なので更にどうでもいい話なのだが、私は、自由とは突き詰めれば「選択肢が増える状態」を表す名称だと考えている。従って、不自由は「選択肢が減る状態」ということになる。つまり、自由と不自由の違いは、選択肢の増減の変動であって、その変動する状態に善悪や幸不幸というものは直結しないと思っている。
もう少し言うと、増えるのが善、減るのが悪。あるいは、増えるのが幸、減るのが不幸というのは、資本主義の銭宗教に盲信した人の思考であって、増減には多少の快不快こそあれ、善悪を結びつけるのはナンセンスだと思うわけだ。
また、自由と不自由は対極にあるものでもない。
例えば、選択肢が10個あったとして、それが11個になった場合、人は増加状態に対峙して身動きがとれなくなる。理由は簡単で、予測のための難易度が上がるからだ。膠着状態は精神を疲弊させるため、それを回避するには選択を絞り込んで1つに決める必要がある。つまり、選択肢を破棄することで身動きが取れるようになるわけだ。先に上げた「自由=選択増加」「不自由=選択現象」を当てはめると、人は前進するために自由から不自由への変化を必要とする、と言い換えることが出来る。
ただし、選択肢の無い状態に慣れると周りが見えなくなってしまう。周りが見えない状態を一言で表すと「拒絶」という。拒絶は、ある種の安定をもたらすが、拒絶によって得た安定は先細りという閉塞感を生む。それを打開するには、再度、選択肢を設けて変化を起こさなければならない。
つまり、行動の抑制と促進という変化をもたらすためには、選択の増減が必須になる。(再度、選択増加=自由、選択減少=不自由という定義を当てはめると)常に自由であってもいけないし、不自由であってもいけない。自由と不自由は流転し、相互に補完してこそ人にとっての存在意義になるということが出来る。言うなれば、自由と不自由は対局ではなく、連鎖の上に存在するものではないだろうか。仮に、自由&不自由に善悪を持ち込むとすれば、自由と不自由のサイクルが遮断されてしまう場合(自由しかない、あるいは不自由しかないという場合)だけだろう。
とまぁ、そんな事を考えながら、話を続ける若人に心のなかで声援を送りながら、私はファミレスをあとにしたのであった。
追伸、名も知らぬ若人の方々。選択に迷うなら、より多くの自由を欲するのではなく、自由を含んだ不自由を受け入れてみてはどうだろう。オジサンは、そんな風に思うのだ。

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