ヨコトタテ

他人からみると、私はかなり淡白だと思われる事が多いようだ。自分では、結構ハマり性だし、凝り性だと思うのだが、確かに人に対しては、頻繁に連絡をとったり、会合に足を運んだりすることはないし、まして、自分からそういった席を用意することもない。つまり、人と交わることが少ないため結果的に希薄な付き合いが、淡白という判断になるのかも知れない。
まぁ、人が自分をどのように見るかは、その人の観察眼やフィルタリングの結果であって、私がどうこうできるものでもないだとうし、無理に否定したり強制する必要はないわけだが、一応、自分としては淡白ではなく、他人とのスタンスとして『信頼はするが期待はしない』を心がけていると弁明しておく必要はあるだろう。
信頼と期待は、おそらく気持ちの出処としては同じものだと思うが、私が考える、この二つの一番の違いは「 時間軸」の有無。自分と他者が存在するとき、現在の繋がりの切望を表すのが信頼。その繋がりに時間的長さを加えたものが期待だと私は解釈している。(期を待つ、つまり未来の定点を持つという事だから、時間の観念が内包しているのは当然といえば当然だが。)言い換えると、信頼とは横軸の距離、期待は縦軸の距離ではないかと思う。
私は他人との関係は基本的に横軸だと考えている。頭の良い人は縦軸も含めた面的な広がりを許容できるのだろうが、頭の悪い私にとっては不確定な関係性に縦軸を取り込むと、複雑さが増して自分のキャパを超え、脳がバーストする。残念ながら私は器用な人ではなかったわけだ。こればかりは努力をしても、というか努力しようと頑張るほど深みに落ちてしまうので、無理せず心と体の安全を優先しホメオスタシスに正直に従っている。
では、使わなくなった「期待」は何処に使うかだが、期待というのは自分に対して使うものだと思う。隣にいる人が、次の瞬間にも隣にいるとは限らない。だが、次の瞬間も、その次の瞬間も、自分は間違いなく自分と共にここに居る。縦軸において、存在を確証できるのは自分という個体だけだ。よって、自分に対しては、どんなに期待をしても良いと思うし、むしろ生きていくなら常に期待を持つべきなのだろう。
よく、信頼できるのは自分だけだという台詞を聞くが、本当は、自分とは信頼するものではなく期待するものではないかとずっと考えている。自分に横軸を作っても、前には進まない。大切なのは縦軸だ。そして、他人との関係の根幹は、縦軸ではなく横軸の信頼ではないか。それが構造のもっとも自然な姿ではないか。そんな風に思う。
だが、案外、世の中には縦軸と横軸を逆にしたがる人が多い。そして、逆にする人ほど、私を淡白だと言いたがるようだ。

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