Twitterと個人事業の個人的相関

3月末と4月始めにブログを書いた。私としては、かなりの更新頻度だ。そして、Twitterと比べると、ブログでの文字量は当たり前だが大分多い。今回、長い文を立て続けに打ってみて、やはり、私の性分がTwitterに向いていないと確信できたことは大きい。明らかに短文が苦手なのだ。長文よりも短文を書く方がストレスが多い。書いている最中も書き終わってアップロードしてもストレスが溜まる。何がストレスかというと、140文字は短くてすぐに読める分、自分が書いた内容の薄さというかクオリティの低さに我慢が出来ないのだ。
もっとも私の場合、長さとクオリティが比例することはまず無いのだが、それは私の能力の限界なので致し方ないとして、では何が違うのかというと文字の物量によって読み手を減らす効果を期待できるところが大きく異なる。140文字だと、うっかり最後まで読んでしまう可能性は高い。だが、文章は長くなるほど、最初の数十文字の書き出しで駄文かどうかの判断基準が立てやすくなるため、140文字に目を通すよりも短い時間で見切りをつけることが可能だ。純文学の名作なんて、最初の30文字で作家の力量と、自分との相性を確認することが出来てしまう(相性が悪いと感じても、最後まで読めば気持ちが変わるとかいう、教育的な問題はこの場合除外する)。つまり、目に入る文字数が、私にとっては、他人様に無駄な労力を使って頂かなくて済むという心の安堵感に繋がっている。確証はないが、明らかに間違ってもいないと思う。
だが、安堵感を得ながらも、こうしたことを考えてしまう性分は極めて面倒くさい。この性分の帰結が、いろいろと職場を変えながら、結局、一人で仕事をすることで落ち着いたということなのだろう。人に使われることは大嫌いだが、それ以上に人を使うことが嫌。それなら一人で何とかすればいい。簡単に言うと、それが帰結だ。
とはいえ、個人事業が向いているかといえば、たぶん向いてはいない。というのも、陶芸や金継ぎの仕事をしていても迷いの幅が大き過ぎるからだ。もう少し分りやすく言うと、自分のやっていることに間違いは無いと思っているが、自分がやっていることを拡大することに正しいという確信が持てない。更に言い換えると、自分の仕事を声高に叫ぶ積極性が無いわけだ。
もっと宣伝したほうが良いですよ、というのは講習会でよく助言される。確かにその通りで、仕事というのは微量でも大きくしようと思わなければ現状維持は出来ない。現状維持を目標にすると仕事は下降線を辿っていく。やっていることの良し悪しとは無関係に、世の中は声の大きな人の方が目立つわけで、それに対し、自分の声は体力を超えることは出来ないので息継ぎをせずに現状の声を維持しようと思えば、やがて肺の空気は減り声帯は枯れていき自然と声は小さくなって大声にかき消されてしまう。少しでも息継ぎをして声を大きく出そうとしないと、声が続かないのは物理的にも理論的にも自明の理だと言える。昔、ラジオで松任谷由実さんが、代わり映えがしないという批判があるが、年齢と共に変わっていく自分を変わらずに存在させることに、どれほどの努力が必要かを理解してくれる人は少ない、とおっしゃっていたが、正にそういうことなのだろう。
分かってはいる。分かってはいるのだが、それでも、私は陶芸や金継ぎを教えることに、Twitterと同じ迷いがある。それをすることで、それを教えることで、無駄な時間を与えることになりはしないか?無駄な消費行動になっていないのか?そして、地球上の貴重な資源を無駄にしていないのか?そうした疑問が、迷いの払拭と業務を拡大する自信に繋がらないわけだ。その点で、そういうことを全く考えずにいることに迷いがない、あるいは、そうした疑問を凌駕して新たな地平に立っているような、優れた広報部長が居たらいいなぁと思うことがある。
もっとも、そうした人間になること(それが無理でも、そういう人間を演じきれること)も、一人で仕事をするには業務の一環なのだろうし、そもそも優秀な人間というのは嗅覚も鋭いから、迷いのある人間には付かないものだ。
全くもって、出来る事とやれる事との乖離は、いかようにして埋めるべきなのか。あぁ、人生には課題が多過ぎる。

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