修理体系

なんとか今日中に書き終わった。すぐ書けると思ったのだが、結局1日かかってしまった。今日中にアップできて良かった。
それと、今回からブログの下書きにエディタを止めてTreeというアウトライナーを使うことにしました。見た目も内容も大差ないですが、一応。
陶磁器修理業を始めた(正確には税務署に青色申告を届け出て、そこに屋号を記載した)のは私の誕生日である。開業日を忘れないために敢てそうしたのだが(以前のブログに書いたとおり)、始めた年をすっかり忘れていた。そろそろ5年くらいかと思って見返したところ、開始は2005年。8年目に突入していた。 まぁ私の時間的感覚とはその程度ということだ。
今まで修理した数を計算したら、年間で250個前後の修理をやっているようだが、未だ迷走状態で気分的には開業1年目と大差ない。
陶器の修理を仕事にしたことで見えてきたことはいくつもある。 その中でも最も大きなことが、陶磁器の修理には未だ体系が存在しないということだ。復元(修復)には学問が存在し、和洋共に専門的な教授が行われている。だが、実用陶磁器の修理には専門的学問や体系はおそらく無い。 金継ぎが歴史的に唯一現存している実用を視野に入れた修理だと思うが、あくまでも漆芸における亜種的な位置付けで学問性は無い(漆の学問はあるが、金継ぎの学問はない)。世間一般では金継ぎと言えば決まった理論、方法論があると思われているようだが、実は、方法も材料も案外適当で、漆芸家の裁量に拠っている。
本式や宗家という冠を付けて、これが本当の金継ぎだと主張しているケースもあるようだが、そうしたケースの多く(むしろ全てと言っても過言ではないと思う)は、装飾あるいは漆芸としての金継ぎ、要するに鑑賞美としてのアプローチから技術の精度を主眼としている場合がほとんだ。 例えば、鉄ヘラやヤスリでの研磨は、漆芸の作業にとっては適切かもしれないが対象となる陶磁器にとっての適切な処理と言えるのか。あるいは、金の磨き込みによる工芸的な美しさは、それが本当にその器と調和していると言えるのか。こうしたことが、あまり疑問に思われないまま(場合によっては器の価値を上げるという半ば宗教的とも言える洗脳を利用して盲目的に)行われている。
無論、装飾的な金継ぎが悪いというわけではない。場合によっては、そうした装飾を優先した方は良いケースもあるのは間違いないし、器に良くないことでも持ち主のニーズに合えばそれを行うことはやぶさかではない(個人的にはそれもどうかと思うが)。だが、全てにおいて、その方法論だけで金継ぎを総括してしまうことは誤りだと思うし、さらに言えば、実用というアプローチであっても、焼成方法や土質に応じて様々な金継ぎの方法を有するべきであり、そこから状況に応じた選択、マッチングがされるべきだと私は考えている。
つまり、金継ぎをする人間は、少なくとも複数の金継ぎという技法を熟知し体得している必要がある。あるいは、陶芸家一人一人が自分の器に最適な修理方法を持った上で陶磁器を作り、修理の方法は修理屋に開示されるべきだ。と私自身は考えている。だが、今のところ、そういう話は聞いたことが無い。
結果、仕方が無いので、自分の破損した器を使って実験をしてみたり、本やネットで金継ぎを検索してみたりして、分かったことは細々とブログに書き込んでいる。まだまだ試してみなければ分からないこともたくさんあるし、何しろ世の中には予想だにしない様々な陶磁器が存在する。それを区分し、そろぞれに最適な金継ぎを見つけ、体系付けるのは、私が死ぬまでやってもまず終わらないと思う。(加えて、修理を仕事にする場合、壊した本人が慌てて接着剤で付けてしまった器から、どうやって器を破損させずに接着剤を除去するのかという事まで見つける必要があったりして、これにも体系は無いので困りものだが、長くなるのでその話はまた別の機会。)
だが、出来ることなら、ある程度まとまったところで書籍にでもして残したいものだ。お金も伝も全くないから望み薄なんだけど。

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