日本人の心

9月中にせめて1回はブログを更新しようと思いながら、気付けば10月。9月は忙しさで光陰の矢の如くに過ぎたのは事実だが、ブログ更新の停滞は、それとは別で、考えがまとまらなかったということが一番大きい。
偽装事件は、遂に事故米の大流出まできた。この流れはたぶん止まらない。間違いなく行くところまで行くと思う。以前に日本の陶磁器の土の配合比を指摘したが、口に入れる物が一段落したら、口に触れるものに世間の目は移行するだろう。そのとき、陶芸も何らかの形で関わってくるんじゃないかと思っている。なにしろ陶芸の原料は米の流通以上に複雑だ。しかも、消耗品だから毎年、新しいものが作られている。偽装の下地は確実に出来ている。
ところで、最近は何か事件や事故があるとメディアのコメンテーターは「日本人の心」という言葉を使うことが多い。「日本人の心は何処へ行ってしまったのか」というお決まりの台詞。実は私、日本人の心というと余りにも漠然としていて、聞くたびに「日本人の心」って何か胡散臭い響きだよなぁと思っていた。共同幻想やプロパガンダにも似た肌触りの悪さを感じていたと言い換えることもできるだろう。だが、同時に、胡散臭さはあくまでも私の世間を見るフィルターの鈍さに由来するもので、世間は日本人の心の確信というものを共通に保持しているのだろうとも思っていた。何しろ私は世間に対して不真面目な人間だ。フィルターの鈍さは自認するところだ。仕方が無いから、あーでもないこーでもないと自分なりに考えを巡らせてみるうちに、遂にブログ更新をしないまま9月が過ぎてしまった。ところが10月に入って、突然、閃きにも似たかたちで考えがまとまった。不思議なものだ。こういう現象は本当に不思議だと思う。それはさておき。
結論から言うと、「日本人の心」とは、たぶん、「面倒な事を繰り返せる特質」だ。面倒を厭わず地道に繰り返していける永続性。一言で言えば「忍耐」というのが、それに相当するのかもしれない。(もうちょっといい言葉が多いつきそうな感じもするけど。)
仮に、合理性を洋式思想、非合理性を和式思想とすると話が分かりやすい。洋式は合理性から生まれる様式美だ。合理的であればあるほど美しい。しかし、和式はその逆だ。非合理的であることに美しさを求める。ただし、その要求はとても辛く苦しいことだ。人の脳は基本的に合理に快楽を覚える。よく分からない事は神や霊などを構築することで理解を進めてしまうほどに合理が大好きだ。その点、非合理性と美は二律背反と言ってもいい。だが、その二つは「面倒な事を繰り返す」ことで親密になり、最終的に「美徳」として昇華する確信を連綿として気持ちの中に保持してきたのが日本人だったのではないかと思う。
例えば、修理。単価が低ければ修理をするより、買い直したほうが間違いなく楽だし、より綺麗で機能的な物を必要なだけ手にすることが出来る可能性は高い。修理しながら一つの物を手元に置くことは、時間や手間のかかる面倒事だ。普通に考えて、一度壊れたものをいつまでも手元に置くことは非合理だ。だが、昔の日本人は修理方法を考え、修理を実践していた。合理の末ではなく、面倒を繰り返す非合理の上に生まれる結果こそが本来のエコロジーと呼ばれるものではないかと思う。合理の上に生まれるエコは、臭い立つほどに胡散臭いのは、おそらくそのためだ。
もう一つ、例を出そう。嘘は指摘されたり、バレたりしなければ真実として加飾できることがある。時として、そうやって生まれる真実は、利益を生み続けることすら可能にする。だが、そうして生まれた利益は往々にして大きな惨事を生む。だから嘘だと指摘すべきなのだが、それはとても面倒なことだ。案外、加飾された嘘は簡単に生みだすことが可能で、大多数が加飾された嘘を真実だと思い込んだ土壌であればなおさら、嘘を指摘するのはリスクが大きい。損得で考えれば明らかに損だ。一度の嘘なら指摘して終わるかもしれないが、嘘を指摘し続けるのは、相当なエネルギーを必要とするだろう。考えるだけでも面倒だ。が、その嘘を指摘し続けてきたのが日本人独特な純潔の思想を作ってきたようにも思う。
面倒なことも繰り返せば必ず美徳に結びつくという確信が、世間では公然の思想として語りつがれてきた。それが日本人の心として結晶化したように思う。
個人事業主になって、私は間違いなくサボり癖が加速したと思う。加齢による体の衰えや、鬱の回避という合理性を理由に、サボり癖を今日もまた加速させている。要するに歳をとってズルくなったということか。出来れば今後は少しずつでも、面倒を繰り返せる心と体に、自分を変え続ける必要があるのかもしれない。
何故なら、私は死ぬまで日本人でいたいと、結構、本気で思っているところが心のどこかにあるからだ。

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