壊れ方への仁義

陶器の修理の仕事を始めてから、写真にしろ実物にしろ、金継ぎされた器を見たとき、妙に違和感を感じることがあることを不思議に思っていた。正確には、違和感のある金継ぎと、違和感のない金継ぎがあることに、何かひっかかるものがあった。
違和感のある金継ぎが、洋金(まがい金)を使っているから嘘っぽい光沢があったり緑青を吹いているとか(洋金は銅と亜鉛の合金なので、多湿条件下に長く放置していると炭酸銅を含む化合物が発生し、緑色になってしまう)、厚く乗せれば強度が上がるという間違った見識で漆を何層も重ねているとか(漆を厚くしても、素地との密着面がめくれたり、水分が入り込めば根こそぎ取れて強度は落ちる)、そういった技術的な問題ではなく、技術に裏打ちされたきちんとした修理であっても違和感を感じることがあるのだ。感覚的なものだから、ずっとその違和感の理由が分からずにいたのだが、この前、金継ぎ再修理の依頼された器を見て、その違和感が何によるものなのかがやっと分かった。
この感覚は、おそらく陶芸屋ゆえに感じていたことなのだろう。
修理の痕跡、つまり金を施した部分に、陶磁器的整合性が無いのだ。要するに、陶芸をやっている人間なら、当然、こんな壊れ方はしないだろうと分かる部分に金が入っている。その違和感なのだ。
再修理を依頼された器は、使っているうちに口元の金がポロポロと取れてくるから塗りなおしてほしいというものだったのだが、この取れてしまう部分、よく見ると器に傷が入っていない。試しにカッターで少しだけ金を剥がしてみたところ、やっぱり傷らしきものは見当たらない。おそらく漆器屋さんか、かなり漆に精通した人が直したようで、仕上げはとても丁寧だ。実際、かなり修理代は高かったらしい。それなら、修理人はなぜ無傷の部分に漆を塗ったのだろうか。ガラス面に漆を塗って日常使いをすれば、短期間で漆が取れてしまうことは当然、知っているだろうに。
で、これは私の推論でしかないのだが、おそらく、この人は自分の美的感性を修理上の最優先事項にしたのではないかと思う。漆芸をやっている人と何度か話をしたことがあるのだが、金継ぎの話になると、どうも反りが合わなくなることが多い(私は漆芸家ではないので、結局は折れるわけだが)。大抵、漆芸人にとって、金継ぎというのは修理よりも装飾に比重を置くことが多い。「金継ぎをすることで、器に味が出る」という話を何の疑いもなく蕩々と話しているから、おそらく間違いない。漆の美しさを表現すれば、壊れた陶磁器は、壊れる前よりもずっと美しくなるという自信があるのだろう。まぁ、確かに金が入ると器の雰囲気はかなり変化するし、漆の持つ平滑性や光沢は魅力的だ。出来る限り漆の特性はきちんとわきまえた上で、金継ぎはやらなければならないと思う。
しかし、私の場合、漆や金の美しさが、陶磁器の破損というリアリティ、陶磁器の持つ特性を無視して存在してはいけないと考えている。つまり、いくら漆や金が綺麗であっても、修理に使用する時にはあくまでも修理剤として使うべきであって、陶磁器の破損法則を無視した使い方をすることは本末転倒だと思うのだ。これは器を作った人への仁義と言ってもいいかもしれない。
例えば、道で転んで右膝から血が出たとする。病院へ行って怪我の処置を頼み、気が付いたら右足が10万馬力の脚力を持った義足になっていた、なんて考えてもらうと分かりやすいか?10万馬力の足の凄さや、義足作りの苦労話をされても、私ならちっとも嬉しく思わないだろう。陶器の修理で金継ぎをした時、破損状態を無視した金蒔きは、漆芸としてどんなに美しくても、陶磁器としては違和感がある。まぁ、私の場合、器を作って御足を頂く商売なので、余計に器の壊れ方というものを知っているゆえの過剰反応であることは否めない。だが、私自身が、もっと漆について勉強しなければならないのと同様、漆で陶器の修理を行う人は、もう少し陶磁器の持つリアリティというものを考えて頂きたいというのが個人的要望だ。
あ、そういえば陶器の修理の事で、記事として書くほどの長さではないから、ここに追伸してしまうが、最近、陶器の欠損箇所の下地の充填剤として、備長炭微粉末の使用を検討している。おそらく備長炭微粉末を充填剤として使用した例はほとんどないと思うのだが、結構、イケてるんじゃないかと思う。まだ実験段階なので、結果についてある程度まとまったら、また発表したい。

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