運動の軌跡

おぃ、夏、おまえ必死過ぎ。毎日、部屋の温度30度超、湿度60%。完全に漆むろじゃん。部屋ごと漆むろってどうなのよ。暑くてサイト更新する気がおきないよ。
とか、いつも漆だの修理だのと書いていたら、私が出向している陶芸サークルの人がこのブログを見つけたようで、「先生は作陶の話は書かないんですか?」と質問されてしまった。あぁそういえば作陶の話って、ほとんど書いたことないかも、プロなのに。というより、作陶関係のウェブサイトは、それこそ腐るほどあるし、書籍だって陶芸コーナーが出来るほど充実している状態なのだから、私が書いても、さして目新しいことはないと思うわけだが、まぁそれでも案外、陶芸のハウツーで見落とされているというか、きちんと書いてあるものが無いなぁと前々から気になっていることはあるので、とりあえずそのことでも書いてみようかと思う。
陶芸がアートという分野において極めて特徴的だと思うのは、完成までの工程に炎が必ず介在するということだが、作陶において特徴的なのは、自分の手跡がそのまま作品に残るということだ。指で押せば指の形が残るし、引掻けば爪あとが残る。彫刻(テラコッタは除く)や工芸品のほとんどが成形道具の痕跡、あるいは手で作っても型起こしで二次的な手跡しか残らないのに比べて、陶芸は鋳込み成形を除けば手跡をそのまま残すことが出来る。だから、私の作陶講習会では基本的に成形道具は紐と竹ぐし以外は使わない。そして、必ず言うのは「自分の手の形をよく見て、これから作る形に一番合った部分を粘土に転写して下さい。」という話。
陶芸入門書では、世界に一つとか、器の味とか、知ったような事を言いならが、カンナや竹べらなどで表面をガリガリと削って手跡を消した工業製品のようなエッジ処理が妙に推奨されていることが多いように見受けられるのだが、私は、自分の体の形をきちんと粘土に写し取ることが本当に世界に一つの味のある表現ではないかと思っている。
電動ろくろの水挽きも同様で、ろくろでコテを使うのが私は大嫌いだ。ロクロ目を出さないというコンセプトをあえて設定した時以外は、コテを使ってろくろは挽かないようにしているし、コテを使う時には自分で木材を削って器に合ったコテを作るようにしている。その辺は私の作陶のこだわりだ。
コテの話はさておき、この手跡を残すという考え方をもう少し推し進めると、陶芸の本質は、身体の運動の軌跡が結果として形に残った状態ではないかということに気づく。手を丸く動かせば丸い器、まっすぐ上に動かせば縦長の器という具合。
暗闇で懐中電灯を手に持って動かすと、その光の軌跡が一瞬、図像として表れる。写真に取ると、完全に絵として定着する。この立体版(しかも壊れなければ半永久的に残る立体)が、作陶ということになる。よって、粘土で形を作る時には、出来上がる形よりも、むしろ、その形が出来上がるまでに自分が粘土の前でどのような身体運動を行うべきかということに神経を集中すべきだと私は考えている。こういう視点で骨董品を見ると、昔の人間がどんな動作で陶磁器を作ったのかということが読み取れることがある。
最近の器は、骨董品に比べて出来が悪くなったとか力が無くなったというのは、現代人の身体運動が昔の人間と大きく異なっていることに加えて、その痕跡を器に残さない(あるいは形にのみ囚われて運動の軌跡という発想そのものが無い)ことによるものが大きいのではないかと思ったりする。
そういうわけで、私は最近、器を作る時には、形を作ることよりも、どう自分が動くのか、もう少し言えば粘土への意識を消して自分の動きに集中する感覚を最優先するよう心がけている。まぁ、そこまで極端な発想はしなくても良いとして、ハウツー本やハウツーサイトでも、こうした体の運び方と形の関係は、もう少し体系付けてきちんと整理し説明しても良いのではないかと思ったりするのだが、どんなもんだろうか。
えぇと、新しい陶芸入門書を出そうとお考えの出版社の方、ご依頼いただければいつでも書きますので、どうぞよろしくお願いします。(あ、すみません。仕事の話になってしまいました。)

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