産地復興

何だかもう1ヶ月が早い、早い。
器の修理・講習会・益子バイトっていうローテーションに加えて、弟がアルバムをインディーズで出すからCDジャケットの入稿用完全版下を作ってくれと言われ、深夜にシコシコと作業して気がつけば10月になっている。相変わらず儲からないのに、やることは多くて、どう考えても体に悪い。しかも全部、視角野の仕事だから目の充血が止まらないじゃないの。何年ぶりかで目薬を買ってしまった。
気晴らしの時間も無い有り様なので、何とか金をかけずに気晴らしをしようと、昨日、やっと近所の本屋で立ち読みする時間を作った。しかし、職業病と言うべきか、足はフラフラと陶芸の書籍の棚へ(笑)。
で、パラパラと陶芸雑誌をめくっていたら、益子の記事に目が止まった。要約すると「益子は故・浜田庄司のネームバリューで何とか産地として生き残っているが、もう長くは無いという危機感を抱いた若手陶芸家が集まって、新しい益子焼を創出するための作陶を行った」という内容。私としては、えぇぇ気付くの遅いよぉ、という気持ちもあったが、少しでも危機感を感じる人間が増えて行動を起こすことは良いことだ。しかし、問題はその行動。器を止めてオブジェにしてみました、っていうだけ。しかもそれが十数年前に誰かがやったようなオブジェ陶。新しい益子焼=オブジェ陶という短絡的な思考、そして、展示終了後は産業廃棄物になってしまいそうなオブジェ群。それが陶芸産地の危篤状態を総合的に表わしているというインスタレーションだ、というならまだしも、真面目に新しい風を作っていると思っているのは明らかに痛い。オブジェをいくら作っても、焼き物産地は復興しないだろ、と誰か思わなかったのか?
なお、オブジェのような鑑賞陶そのものが悪いわけではない。私自身は、実用陶も鑑賞陶も、同じオブジェクト(=モノ)という点では全く違わないと思っている。人の生活を変える力があるなら、実用も鑑賞もそれは同一線上だ。実用陶は「用の美」だからオブジェとは質が違うなどと言って、人間国宝の作った陶器を売る陶器店があるが、実際のところ、そういう物はほとんど使われずに飾ってあるか、蔵に収まっている(しかも壊れてしまった時は、使えなくて構わないので破損箇所が分からないように直してくれと言われたりする)のだから「用」なんてものは存在しない。そもそも「用」とか「美」などという奇麗な言葉で陶を語るのは、すでに前世紀の末期的症状だと気付く必要があると、私は前から考えている。まして、産地復興をコンセプトにするなら、陶をそうした平和な時代のベクトルの延長に置いたり、産地が陶芸好きな金持ちを言葉巧みに騙す手段として使うのは問題ありと考えなければならない。
危機感を持った陶芸産地が着目すべきことは、「用」と「美」ではなく、現状の陶が「置物」と「使い捨て」という二つのベクトルしか持っていないということだ。100円ショップで大量の陶磁器が売られるようになり、そのベクトルはより明確になっている。そして、このベクトルを変えなければ復興などは存在しない。言い換えれば、陶を取り巻く環境を変えなければ、どんなに創作物を工夫しても問題は解決しない、ということだ。
陶器をオブジェに変えるだけの産地は、カウンターに座ると椅子や机がベタベタしているような中華店が、新しい料理を作ってアピールするようなものだ。新しい料理が美味いとしても、その料理を食べるための店作りがおろそかになっていれば、客は店を選ばない。(と、思う。まぁ、田舎はこういう意識が希薄なのに潰れない不思議な店が多いことは認めざるを得ないんだけども。)
話を戻して。益子について言えば、新しいデザインをいくら考えても、益子焼への客の視点は大きく変わらないし、置物と使い捨ての加速は止まらない。巧みな会話で高額な置物を売り、買い手はそれを床の間に飾る。器に手作りの温かみというラベルを貼って店は売りつけ、買い手はそれを買うために古い器を捨てる。そんな既存のシステムに、賢明な客は、もう飽き始めている。
だから、生き残ろうとする産地は少しでも早く、陶を取り巻く新しいシステムを作ることに挑戦するべきで、これが本当の産地復興なのだと私は思う。次のステージは見えている。そのステージに足をのせる力が、益子に残っているかどうかは、ちょっと分からないけれども。

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  • Xanax

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