介護食というもの

ここのところ、婆さんが妙に元気だ。一時は、ほぼ寝たきり状態でトイレも行かなかった婆さんが、少し前から自分で起きてテレビのスイッチを入れ、椅子に座って視聴するようになった。テレビがつまらない時は、新聞など読んでいる。医者も驚いていたが、一番驚いているのは婆さん自身だと思う。その婆さんは、元気になった原因を「食事が美味しいので元気になった」と推測しているらしい。食事だけであそこまで元気になるとは思えないが、それでも元気になった理由の一つとして、食事は十分に考えられると思う。何しろ、私が毎日、手作りしているわけだから。(笑)
私が田舎へ帰って来てすぐに、婆さんは意識不明で入院した。家族が交代で病院に寝泊まりすることになり、私も1日だけ病院で婆さんと過ごしたことがある。そのとき、一番強く感じたのは、食事の不味さだ。婆さんは食欲が無いので、試しに私が食ってみた。病院なので栄養配分を配慮した献立ではあるのだろうが、全てのメニューが煮込んでベチャベチャ。しかも、甘くもなく辛くもない極めて単調な味ばかり。で、必ず高タンパク低カロリーな乳酸菌飲料が付いている。(これは、ちょっとリンゴ味で私は好きだったが。)要するに、赤ん坊の離乳食に毛が生えたようなメニューなのだ。いや、ある意味、離乳食以下と言ってもいいかもしれない。
私は食事に関してそこそこの哲学がある。それも栄養士や料理研究家のように食材から入った哲学ではない。陶芸屋として、器と人間をトータルで考える食事という哲学だ。それを基盤としたトータルシステムとしての食事空間は、器を作る際にも重要な要素だったので、考える機会も多かった。そうした観点から、老人や病人への食事が、病院では全く配慮されていないことを痛感し、婆さんがもし退院出来たら、私が東京で培った食事空間の哲学を実行しようと、夜、付添いのベットで考えたりしていた。
運良く婆さんは退院できたので、次の日から、夕飯は私が作ると勝手に決めた。私の食事哲学を婆さんを実験体として実行する為だ。婆さんには悪いと思ったが、食わせないわけではなく、あくまでも食わせたいが為の実験なので、死んでも恨まれる事はないだろうと勝手な解釈で腹を括った。
さて、そこで、病人や老人への私の食事空間の哲学である。基本は、「老人や病人は赤ん坊ではない」ということだ。
特に老人は、何十年という食に関する多くの記憶がある。記憶は食にとって重要な要素だ。好きな物、嫌いな物。食べて感動したこと、泣きながら食った食材。食の一口には、連綿とした食事の思い出に連なる様々な人生の断片がある。だから、食事には、きちんとした個性ある味が必要なのだ。それも、健康な成人と同程度の記憶に残る刺激としての味がなければならない。
更に、病人や老人の胃は、赤ん坊の胃とは明らかに異なる点がある。それは腸内細菌の種類と量だ。赤ん坊はまだ胃の中に十分な腸内細菌が育っていない。だから食事は出来るだけ加熱処理し、低刺激にして、少しずつ細菌を培養していかなければならない。分かりやすく言えば、シャーレの中の寒天培養地みたいな胃を作っていかなければならない。その為に離乳食は加熱し薄い味付けで刺激を少なくしなければならない。しかし、病人や老人の腸内細菌はすでに完成の域に達している。足りないのは免疫力であって、腸内細菌の働きは、おそらくほとんど低下していないはずだ。従って、これまで口にした食事に出来るだけ近い物を腸内細菌には与える必要がある、と思う。免疫力が落ちたからといって、腸内細菌に与える栄養状況を極端に変えてしまっては、更なる体力の低下を招くと私は考えている。
昔の人は、胃の下に丹田というものがあって、これが体の調子を整えていると考えた。今でも座禅やヨガでは丹田という考え方をするし、漢方でも丹田は語られる。私自身は丹田をあまり重要視していないのだが、丹田の上の胃の働きは極めて重要だと思っている。何故なら、胃の刺激によって私は肩が凝ったり頭痛になったりすることを、身を持って体験しているからだ。だから、胃で生活している腸内細菌や、腸内細菌が接種する食事には、十分に気をつける必要があると思っている。
こうした哲学を前提として、婆さんに出す食事のメニューを考えた結果、基本的に食事は家族が食べる夕食と全く同じものを出すことにした。わざわざ、介護用に食事のメニューを考え、作ったりする必要はないだろうと考えた。婆さんは動けないのでベットの上で食事をするが、食事のメニューそのものは家族と全く同じ物を食っているという自覚が必要だと思ったのだ。全てを加熱処理する必要はない。煮る、蒸すの他に、揚げ物や炒め物、和え物や漬け物、サラダなどの生物があってもいいと思う。無論、家族が食べる料理をそのまま無加工で出しても食べられない事は分かっている。何故なら婆さんには歯が無い。また、生唾が出ると訴えているので、どうやら消化酵素の働きがおかしいようだと直感的に私は感じていた。
料理のメニューは一般成人と同じもの。しかし、そのまま出しても食べられない。この矛盾をどうしたものか。そこで、家族用に作った食事を、全て擂り潰してペースト状にしてみたらどうかと思い、ホームセンターで小さなフードプロセッサーを購入した。たぶん、これなら犠牲にするのは食感のみだ。栄養価も味もほとんど変わらないに違いない。と考えた。
しかし、実際にペースト化を行って見ると、食感がいかに大切かということを痛感する。物を噛んで味が染み出てくるのと、最初から染み出た味を口に入れるというのは、実に似て非なる物だった。その調整の為に、ほんの少しだけ加工を行うプロセスと技術が必要になった。
また、メニューの中にはペースト化すると急に液状化してしまうものや、逆に固くなって食べにくくなるものもあった。最も困ったのは固くなる品目だ。代表的なのは油物で、特に揚げ物は、中身の水分と、周りの衣の油が混じって粘性が高くなり、噛んでも噛みづらいし、飲み込むのはもっと難しいという調整難易度の高い品目だということが分かった。人間は、噛む時に、最も喉を通過しやすい状態になるよう口の中で加工してから飲み込む。当たり前のことだが、これをフードプロセッサーで実現するのは絶望的だと思われた。
だが、こうしたことも、ペースト化させる際に追加する水や液体の量を加減する、味は変わらず状態だけを変える食材を追加する、熱いうちにペースト化させて冷蔵庫で冷やすことで固さを調整する、などの工夫によって回避出来ることが分かって来た。毎日の実験の繰り返しで、現在、和洋中あわせて100品目以上のペースト化に成功している。その詳細は、時間が出来たら、いずれ紹介しようと思う。
いずれにせよ、こうして婆さんは、今のところ健康だ。本当は、噛むというプロセスが復活する程度に健康になれば良いと思うが、それは無理らしい。一度、噛む食事を出したところ、発作を起こした。おそらく胃が対応できずに拒絶反応を催したのだと思う。素人判断で発作に勝手な解釈をしてはいけないかもしれないのだろうが、発作が出るまでの一連の流れから判断して、たぶん、当たらずとも遠からず。全く関連性が無いということはないだろう。
全ての老人が、同じ状態の食事で健康になるとは思わない。しかし、いま食っている食事を変える事で、健康状態が変わることは多いにあると思う。それも、介護用に手間ひまをかけて食事を作るのではなく、普段と全く同じ食事に、ほんの少し、ひと手間をかけるだけの簡単な方法で、驚くほど変わる可能性を秘めていることは、もっと広く認識されるべきだ。