引っ越しの日

 いよいよ、あと数時間後に引越しが始まる。
 電化製品の全てのケーブルを外し、ブレーカーを落としてしまった部屋の中は、無駄な光源が無いので実に暗く、そして静かだ。バッテリー駆動のノートパソコンの液晶だけが妙に明るい。 わずかな家具とダンボールの山をボーっと眺め、2トン車に入るだろうかなどと考えながら、そういえば此処へ越してきた日の夜も、確かこんな感じの風景だったことを急に思い出した。
 もっとも、あの時はまだパソコン用の机など持っていなかったし、テレビももっと小さなものだった。よくよく考えてみると、大学を卒業し、此処へ引っ越して来た時の家財で今も残っているものはテレビ台くらいかもしれない。Macもパソコンデスクも、2台のビデオデッキと1台のDVDプレーヤーも、ステンレスラックもステレオコンポも、掃除機も服も布団も電動歯ブラシもゴミ箱も、ボールペン1本に至るまで、全部、現在の住居になってから購入したものだ。
 そう考えると、ここでは実に多くの思い出を買い、そして思い出を処分していたのだと、改めて気付いた。上京した時に田舎から持ってきたものなど、おそらく一つも無いと思う。全てが東京の思い出で囲まれていたということだ。
 そして、その僅かばかりの思い出を携えて、今日これから田舎に帰る。
 もしかしたら、田舎に帰って数年もすれば、また私の周りのほとんどの物は田舎で調達したものに変わってしまうのかもしれない。たぶん変わってしまうだろう。私自身もそうした環境の中で、田舎の生活になじんでいくことと思う。人は変わっていくものなのだと頭では分かっていたが、この歳になって、ようやく実感として認知することが出来たようだ。それを理解して、何となく東京で全ての生活が完結したと、心の何処かで感じた。
 さて、とりあえず早いけど朝飯でも食ってこようか。これが東京での最後の食事だ。