陶芸どう?『玄人命題』

陶芸に限ったことではないと思うが、陶芸の世界はプロフェッショナル(以下プロ)不在と言われて久しい。勿論、これはプロが全く居ない世界だという意味ではなくプロとアマチュア(以下アマ)の境界線が曖昧になっているということだ。骨董屋のオヤジや素人目利きがそうした事を言って自慢げな顔をしているくらいなら、大して問題ではないと私は思うのだが、陶芸を生業にしている人間が、こういうことを書いているのを読むと正直、腹が立つ。そんな馬鹿な、と思うかもしれないが陶芸関係のサイトを検索しみるとプロ不在を書いた陶芸業の人間の文章を一つや二つは簡単に見つけることが出来る。
プロ不在を主張するプロの言い分をまとめると、およそ次のような結論になる。
「機材の進歩や多数の指導書のおかげで、今ではプロとアマに技術力の差は断定しにくい。更に個展や陶器市でアマも作品を売ることが出来るようになっているから、売買においても線引きは曖昧だ。よってプロとアマを区別するのは難しい」
これを読んでどう思われるだろうか?私はあえて「技術力と金額の線引きでプロとアマを分類できると思っているようなプロフェッショナルは、アマチュア以下だ」と言わせて頂きたい。技術や金銭の授受という線引きがプロの証として機能する時代は、もうとっくに終わっている。そこにプロとアマの線引きが無いのは当然だ。
普通、時代が進むに従い文化は複雑化し、より多くの枠組みや線引きの付加、それに伴う構造の見直が必要になってくるが、器作りに代表される陶芸ではどんなに世界が複雑化しても、こうした構造の見直しや再構築が何故か行われにくい。言い換えれば、陶芸に対するスタンスが全く変化しない(あるいは低下している)と言っても過言ではないと思う。これは作品そのものと同時に、作り手の思考にも言えることだ。
器という形態の単純さや、変に古陶磁を偏重し模倣を試みる作家が多いことも原因にあるとは思うが、一番の原因は、誰もが窯を焚けるようになったことで形を作る事に対しての詰めの甘さが許容されたまま市場が拡大してしまったことにあると私は思っている。
本当に陶芸を志している人間は、今後、何を持ってプロというのか、という根本的構造に対する定義付けを行った上で「従って自分はプロである」というプライドを持った仕事をする必要があるように思う。新しい線引きを見つけることがプロへの第一歩だといっても良いかもしれない。間違っても、プロとアマの(誤った見識による)ボーダーレスを助長するべきではないだろう。
ちなみに、私自身が持っているプロに必要な線引きの一例には、先進性と統合性がある。
例えば、自分が作る器は、これまでの食卓を満足させるためだけではなく、未来の食卓のアーキタイプを創造する思想を内包した形態表現だと思っている。
つまり、新たな生活空間やライフスタイルの可能性を提案するシステム構築のための形体表現を行っているかどうかが、プロとアマの線引きになるということだ。端的に言い換えれば「環境の再定義」と言っても良い。更に重要なのは、より多くの分野を的確に統合して完成した形態が結果的にどれだけ社会に変化を与える責任を持っているか、言い換えれば、どれだけの人数の幸せに加担する責任を持ちうる形なのかという計算性においてプロは成立する。
もう少し分かりやすく言えば、部屋に似つかわしくないと思われるような器を作るのはアマ、器に見合った部屋になるよう模様替えをしたいと思わせる作品を作るのがプロということだ。
もっとも、そんな抽象的な定義であれば、いずれ意識向上が進むことで誰もがプロの領域に入ることが可能だという意見もあるだろう。全くもってその通りだ。いや、むしろそうでなければならないとも言える。プロは常に社会環境においてより正しいと思うことを形にすべきであって、更に、アマがプロに近づくことを常に歓迎しなければならない。私は、それこそが真のボーダーレスといえると思っている。
しかし、プロであれば、そうしてアマがプロの領域に踏み込み始めた時は、もうその場をアマに譲り、新たな線引きを行って更に高次な領域に移動を完了していなければならない。そのフットワークの広がりと軽さこそ、全てのプロが持つ当たり前のプライドではないだろうか。
譲れないものを持つのではなく、譲ってもなお新しいものを手にしているかどうかが、プロであることの証だと言ってもいいかもしれない。
これは、あくまでもプロの線引きの一例で、全く異なるアプローチによるプロの線引きもあるだろう。ただし、自分自身がその線引きに達することが、なかなか出来ないというのも事実で、その意味で、私のプロの線引のは大風呂敷だという批判は厳粛に受け止めなければならないとも思っている。私にとってのプロは、いつも私自身の上にある。