陶芸どう?『流動思想』

私は。ワイヤードでもリアルワールドでも、今や非常に肩身の狭い思いを強いられているMacintoshユーザーだ。私がMacを使い始めたころは、まだWindowsの3.1の話がちらほら出てきていた時代だから、グラフィック関係の仕事を少しずつ始めていた私にとってMacを使うのは、ある意味、当然だったわけだが、今ではOSが持つ思想性でMacを使い続けている。Macオタクと言わればそれまでのことだけど。
それはさておき、現在、私が使用しているのはOSXだが、そのOSで非常に気に入っている思想の一つのがアクアというコンセプトに基づいたFinderのナビゲーションにある。最近はWindowsも使うようになったが、ナビゲーションに関しては、まだOSXには遠く及ばないと思っている。アクアは日本語で水という意味だが、これは単に画面が青く水っぽいデザインである以上に、流動という思想が強く反映されている事に由来する。若干、OS9の動きを残しているため、完ぺきなアクアとは言えないところもあるかもしれないが、それでも情報表示の因果関係を、流れる水のごとく視覚的流動性を使用して視認させるナビゲートは優れていると思う。
話は変わるが、よく、銀行のCD機の前で操作が分からずオドオドしている人を見かける。私も、初めて使う他銀行のCD機の前では、オドオドしてしまうことが多いのだが、このCD機の前でオドオドしてしまう原因の大部分は、ナビゲーションの視認性の悪さに由来すると思っている。もう少し分かりやすく言うと、一つのボタンを押した後に切り替わる画面が、前の画面との因果性をほとんど無視しているということだ。
CD機のような小さな画面においては、スクロールよりもスタック式画面が最適なのは理解できるが、スタック式画面をデザインしている人間には、スタックの持つ動きというものの認識が全く欠落していると言わざるを得ない。スタックには、カードをめくるという人間の動作が伴っていおり、それは「どのようにカードをめくったのか」で、「何故カードをめくる必要があったのか」までの因果関係の視認を可能にする。CD機のボタンを押した後に、いきなり変わる画面には、そうしたスタックの「めくる」という連続性が皆無なので、次への動作の流動性が阻害されてオドオドする人が後を断たないのだと思う。
MacOSXでのナビゲーションには、ボタンをクリックした後に現れた画面が何故必要だったのかを、アクア的流動性で美的に視認させる。銀行のCD機のシステムを作っている人間は、OSXのウィンドーナビゲーションを是非とも見習ってほしい。せめて、次の画面に変わる際に、何らかの因果性を持たせたアニメーションを伴って欲しいと思う。(もっとも、これは銀行のCD機に限らず、ほとんどのディスプレーを伴ったナビゲーションに共通するものだと思うが。)
さて、そこで陶芸の話になるが、粘土をこねて形を作る際に、自分の思う形が上手く出来ないという人の多くに共通した原因が、実は、この流動的ナビゲーションの悪さにある。頭の中にある完成までの流れが、銀行のCD機式スタック状態なのだ。極端に言えば、最初と最後の2枚の画面だけで、あとは全く存在しない。その間の作業の流動性を全く考えずに動いているので、動きがちぐはぐで右往左往状態になっている。
特に、電動ロクロを挽く人には、土取りから器の切り離しまでの作業の流動性がシミュレートされていないことが多い。粘土が回転板の上で回り始めると、とりあえず触っていじくりまわすが、粘土のどこを触って、次に、どこに力をかけて、という完成までの手際が、完ぺきに断片化している。
よく、慣れれば体が覚えるなどと言うが、私は、そうは思わない。慣れは、完ぺきな動作の因果関係の構築によって生まれるもので、この因果関係の構築=流動的ナビゲーションへの意識あるいは思想が無ければ、どんなにやっても体は覚えないと思う。
実は、陶芸というのは完成までの道のりが非常に長く、窯焚き時間が早くなったとはいえ、成形から完成まで早くても1週間くらいはかかる。だから、完成までのプロセスも、きちんと流動的な思想として流れ続けていないと、出来上がったモノに力が内在しない。逆に言えば、出来上がったモノに力を内在させるためには、最初から思想的流動性を考慮しておく必要がある。
もし、どうしても思うような形が出来ないという人がいるなら、一度、完成までのプロセスがどの程度、自分の頭の中で構築されているかを見極めてみる必要があると思う。美しい流れは、自分の中にある力を無理なくモノに注ぎ込む。おそらく、それは、流れるような美しい手前が、美味しいお茶を生み出すのと同じようなものだと思う。

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